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悲劇の女王台与のはなし(その3)

2020-03-18 15:48:58 | 古代史
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最初の卑弥呼の墓は、「魏志倭人伝」に記載される径百余歩(直径約150m)の円墳だが、そこからこの妻垣神社の東側の足一騰宮(あしひとつあがりのみや)跡の磐座(いわくら)が置かれている場所に改葬されたようだ。神騰(かむあが)りとは貴人が亡くなって神になることを意味する。地元では一柱騰宮(いっちゅうとうきゅう)と伝称し、一つ柱は卑弥呼のことで、ここを死んだ卑弥呼の宮(墓)とし、後に宇佐神宮の亀山に移斎されたとしている(矢野武夫「卑弥呼の墓発見」安心院町文化連盟、昭和56年、pp.90-91)。


「日本書紀」ではウサツヒメを神武天皇につき従った天種子命(あめのたねこのみこと、藤原氏の遠祖)がちゃっかり娶ったことにしているが、「古事記」ではそこが消されている。ウサツヒメが台与であることを隠すねつ造を「古事記」がそれとなく正したということか。

ところで出雲神話ではスサノヲがヤマタノオロチを退治した後、この出雲の地が気に入ったのでそこに奇稲田姫と住む宮殿(八重垣神社)を造ったとされる。その時にスサノヲが詠んだ歌がこれだ。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」

日本で最初に詠まれた和歌として残されている。妻垣はこれを連想させるものだ。スサノヲのこの神話はおそらくスサノヲ大王の直系の大国主久々遅彦が妻垣神社で台与を女王に立てて大王として倭国を治めた史実を神話化したものだと考えられる。実際には奴国大王スサノヲは師升ら宮廷楽師らに殺されたが、スサノヲが高天原を追われた後の神話や神話に沿った伝承などは、大国主の史実を誤魔化すためにその祖であるスサノヲと混同させるやり方で真相を曖昧にしている。首長霊祭祀が始まった弥生後期では偉大な先祖の魂が直系の首長に宿るという考えがあったからなのだろう。久々遅彦(狗古智卑狗)も直系の子供が襲名したと考えている。例えば、大国主が死んで葬られた久留米市の祇園山古墳もスサノヲと関連する名前が付けられている。最初はスサノヲの墓かと思ってしまい、直ぐには大国主とは繋がらないのでよく分からなかったが、トリックのつもりはないのかも知れないが、こういうやり方は分かってしまえば面白い(^_-)-☆。



また三女神社の東側、妻垣神社の北東に佐田神社があり、御祭神を武内宿禰・素盞鳴尊・大山祇命とする。主祭神の武内宿禰は「日本書紀」で五代の天皇に仕えた三百歳の大臣で、葛城氏、蘇我氏などの大和の有力氏族の祖としている。常に神功皇后に寄り添う老人というイメージが強いが、先に述べたとおり「記紀」の武内宿禰(「古事記」では建内宿禰たけしうちのすくね)こそ13歳の台与を女王に立てて倭国王となった狗奴国の官久々遅彦(狗古智卑狗)であり、大国主のことだった。ここにも王宮を置き、以前に紹介した佐田の京石というストーンサークルで、倭国を手に入れたことへの皇祖神への感謝の祈祷を行ったのだろう。米神山の西麓に在るのだが、この山の中腹から山頂にかけて巨石群があり、その頃の祭祀の跡なのだ。

佐田京石ヒーリングルームひふみ より)

お気づきかも知れないが、佐田という名前は出雲国三大社のひとつである佐太神社の祭神佐太大神(サルタヒコ)のことだ。
邇邇芸命が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた。道がいくつもに分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。『日本書紀』では、その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿であった。そこで天照大御神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田毘古神で、邇邇芸命らの先導をしようと迎えに来た。Wiki「サルタヒコ」より)

そのサルタヒコと武内宿禰が同一ということだから、その正体は大国主久々遅彦のことなのだ。一方、天宇受売神はサルタヒコの前で胸乳を露わにし裳帯(もひも)を臍の下に垂らしたとあり、また岩戸神話でもアマテラスを岩戸から引き出すために裸で踊って八百万の神々をドット笑わせたとある。アマテラスが天岩戸に隠れたというのは卑弥呼が死んだことを意味し、岩戸を開いて再び明るくなったというのは女王台与が登場したことに対応するいう説があった。そうすると天宇受売命は女王台与ということになる。唐古鍵遺跡で出土した鳥の格好をして下半身を露出して神憑(がか)りする巫女のイメージなのだ。


ほとんど人前に出ないという卑弥呼も同じ格好をして神憑りしたのだろう(注1)。そして右の図も同じく鳥の格好をした男性で、巫女を神憑りさせ神託を請う役割の巫(かんなぎ)または祝(はふり)だ。「古事記」に、仲哀天皇が熊襲を征伐するにあたり、筑紫の香椎宮で天皇が琴を弾き、建(武)内宿禰大臣が沙庭(さにわ、神降ろしの場所)で神託を請い、神功皇后が神憑りして神託を伝える話がある。前漢時代(紀元前二~一世紀)、琴のことを空侯(クウコ)と呼んでいたようで、イラン語の竪琴ハープ(quiqao)のことなのだ富来隆「虚空津姫(くくつひめ)」と「狗古智卑狗」と」大分縣地方史.32-33(1964.1),p.1-9。つまり、大国主狗古智卑狗(久々遅彦)はクコツヒコ(空侯の男)、琴を弾きながら巫女である台与に神がかりさせる祝(羽振り)という意味だったのだ。

大国主ほど、大己貴命(おおなむち)、八千矛神(やちほこ)、葦原色許男(あしはらのしこを)などなど数えきれないほどたくさんの別名を持つ神はいない。すべて日本建国の真相を隠す意図なのだと分かる。詳しくは、本当は怖い七福神の謎(;一_一)をどうぞ!

(注1)乳房描かれた弥生土器 「卑弥呼誕生の歴史分かる資料」
岡田匠 2019年10月9日 18時55分 朝日新聞デジタル


やはり鳥の格好をしている(*^▽^*)(2020.3.23 追加)

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