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本当は怖い七福神の謎(;一_一)

2023-05-28 22:47:07 | 古代史
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前回2022-01-14 17:58:38(初版2019-08-12 16:59:55)にアップしましたが、この記事の内容、初めての方は理解が難しいかなと思いましたので、とりあえず(注6)を加えました。疑問点がございましたら遠慮なく指摘してください。よろしくお願いします。

七福神(しちふくじん)とは、福をもたらすとして日本で信仰されている七柱の神である。七柱は一般的には、恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天とされており、それぞれがヒンズー教、仏教、道教、神道など様々な背景を持っている。Wiki「七福神」より)

その起源は『一個人』(2017年7月号)に依れば「室町時代、京に住む庶民の現世での利益を求める心から福の神信仰がはじまったとされる。はじめは、三神や八神など、人数にばらつきがあった。」とある。



七福神それぞれの簡単な説明は以下のとおりだ。
恵比寿
イザナミ・イザナギの間に生まれた子供「蛭子」(ヒルコ)もしくは大国主の息子である「事代主」(コトシロヌシ)などを祀ったもので古くは「大漁追福」の漁業の神である。時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす神となった。唯一日本由来の神である。
大黒天
インドのヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ神。日本古来の大国主命の習合。大黒柱と現されるように食物・財福を司る神となった。
毘沙門天
元はインドのヒンドゥー教のクベーラ神。福徳増進の神であったが、仏教に取り入れられてから、戦いの神としてしだいに民衆に信仰される。日本では毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)と呼ばれる。
弁才天(弁財天)
七福神の中の紅一点で元はインドのヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神。仏教に取り入れられ、音楽・弁才・財福・知恵の徳のある天女となり選ばれた。七福神の一柱としては「弁財天」と表記されることが多い。
福禄寿
道教の宋の道士天南星、または、道教の神で南極星の化身の南極老人。寿老人と同一神とされることもある。長寿と福禄をもたらす。
寿老人
道教の神で南極星の化身の南極老人。日本の七福神の一人としては白鬚明神とされることもある。
布袋
唐の末期の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したといわれる仏教の禅僧。その太っておおらかな風貌が好まれ、手にした袋から財を出し与えてくれる。弥勒菩薩の化身ともいわれている。

しかし、なぜヒンズー教、仏教、道教、神道のこれらの神が福をもたらすと信じられたのだろうか?

今回はこの謎に挑戦してみよう(*^▽^*)

記紀神話に登場するヒルコか事代主か?という日本由来のエビス様が七福神のだいたい筆頭で現れているのは何かのヒントのような気がする(^_-)-☆

次の大黒天は、最澄が比叡山で台所の神様として祀ったのが次第に人々に拡がったとも言われている。その名前から出雲神話の大国主命が神仏習合したものだとすぐわかる。

二柱とも日本の神が外国の神に習合したものなのか?

しかし、次の毘沙門天は、仏教の守護神の帝釈天に仕える、日本では甲冑を着けて武器を持ち、邪鬼を踏みつける姿の四天王(東方持国天、南方増長天、西方広目天、北方多聞天)のひとり多聞天のことだ。刮目天は広目天の双子の兄弟としているが、一般には全く知られていない。毘沙門天は日本の神と習合していないという話のようだが、何故なのか理由が分からない。それも七福神の秘密なのだろうから、あとでまた考えるね。

その次の弁財天だが、これは宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)の主神市杵島姫が習合したと言われている。「日本書紀」が建国の真相を誤魔化すために三女神としたが、本当は宇佐神宮の中で八幡大神応神天皇の一之御殿や神功皇后の三之御殿よりも立派な二之御殿に祀られている比売大神(ひめのおおかみ)、すなわち宗像神市杵島姫命が邪馬台国の女王「卑弥呼」だったと刮目天が突き止めたのだ(注1)。

弁財天は実在人物卑弥呼の神格八幡比売大神・宗像女神が習合したものだったのだ。(^_-)-☆

そして、共に南極星の化身の福禄寿と寿老人は航海の目印となる同一神だが、日本の白髭神社の祭神白髭明神サルタヒコもニニギノミコトの天孫降臨を導いた神でもあるのだ。Wikiに白髭神社ではまれに神武天皇の東征を導いた塩土老翁神(シオツチノオジ)を祭神とされているとあるから、これらの神はすべて同一の教導の神だと記紀の秘密を自ら暴露しているのだ(*^▽^*)

老人というと記紀に登場する人物では第8代孝元天皇三世孫で蘇我氏を始めとする有力氏族の祖の武内宿禰が直ぐ思い浮かぶ。第12代景行天皇から16代仁徳天皇の五代の天皇に仕えた三百歳を超す長寿の人物ということになる。いや、三百歳の長寿と云えば、龍宮城から浜に戻って玉手箱を開けると、白い煙と共にたちまち老人になってしまった浦島太郎(浦嶋子)の話とも合致するのだ(注2)。

さらに、住吉大社の伝承では仲哀天皇のモガリに神功皇后が住吉大神と夫婦の密事をしたとあり、応神天皇の本当の父が仲哀天皇ではないかも知れないと、記紀の記述に反する真相を示唆するものだと関祐二さんが指摘した。神功皇后に常に寄り添っていたのは白髪の老人武内宿禰だ。彼が住吉大神のことで、本当の父親だったという衝撃的な事実を暴露する話なのだ。もともと記紀では仲哀天皇は父のヤマトタケルの薨去後38年たって生まれた勘定になっているから、その存在自体怪しい。まして、その祖父の景行天皇が仲哀天皇崩御後に九州遠征した記紀の内容に合致する第三次倭国大乱の痕跡を見出せることを刮目天が発見したから、例によって「日本書紀」が建国の真相を誤魔化すために年代を誤魔化した作り話だと分かる。(【検証6】倭国大乱の実相は?(*^-^*)【検証18】倭国大乱の痕跡だ!【検証19】日本建国のための戦いだ! 参照)(2023.5.30 赤字訂正)



関祐二さんはまた、神功皇后が卑弥呼の跡を継いだ台与だと指摘した。刮目天は、九州の宗像を根拠地とし、東部九州、四国、中国西部を支配下にしていた卑弥呼の宗像海人族の一派で、米子を根拠地として出雲から北陸や新潟や内陸部の会津あたりまで支配下に置いて、越人文化を取り込んだ縄文海人族だと突き止めている(【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?(;´Д`))。

そうすると狗奴国の官として「魏志倭人伝」に紹介された狗古智卑狗(注2)が、記紀の中で武内宿禰やサルタヒコとして登場した人物の正体であり、応神天皇の本当の父親だったということなのだ。卑弥呼の後に倭王に立った男王に皆が承服せず、千人以上が殺される内乱となって、結局男王が死んで台与が女王に即位したと魏志倭人伝が伝えている。台与と狗古智卑狗に殺されたその男王こそ、神の祟りで突然崩御された仲哀天皇のことなのだと関祐二さんが推理した(関さんは武内宿禰が狗古智卑狗とまでは言ってなかった)。その時女王を継いだ台与は13才だからまだ子供を産むには早すぎる年齢だから、卑弥呼が死んだ247年から3年から4年後に応神天皇(ホムダワケ)が生まれたのだろう。

狗古智卑狗(久々遅彦)は狗奴国ヤマトの大王卑弥弓呼(もう一人のハツクニシラススメラミコト崇神天皇のモデル)を裏切って、倭国王となった実在の人物なのだ。邪馬台国の卑弥呼の宗女として台与を女王にし、魏に朝貢させた(注3)。狗古智卑狗こそ、北部九州・四国・中国西部に加えて、新たに新潟までの日本海沿岸部など列島の大半を支配する倭国の大王となったので、記紀神話や出雲風土記では葦原中国の国津神大国主命として登場させているのだ。

<国譲り神話>
高天原は大国主命に国譲りを迫ろうと、最初に使者として送ったアメノホヒは大国主の家来となり、三年たっても高天原に戻らなかった。次に送ったアメノワカヒコは大国主の娘の下照比賣と結婚し、八年経ってもいっこうに任務を果たさないので、天から矢を撃って殺してしまった。その次に経津主神(フツヌシ)と武甕雷男神(タケミカズチ)を派遣した。大国主命の力自慢の子タケミナカタが立ち向かったが、タケミカズチに敗れ、信州諏訪まで逃亡し、そこから出ない約束で許された。大国主は息子の事代主に相談してくれと二人に伝えた。美保ヶ崎で漁をしていた事代主は話を聞いて、船を踏み傾け、天ノ逆手を打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。つまり、呪いながら海に沈んで行った。そこで大国主命は、一番立派な神社を作って祀ってくれるのであれば国譲りを了承しようということで、日本一豪壮な出雲大社が作られたというストーリーだ。

この出雲の国譲り神話こそ、狗奴国ヤマトが台与と狗古智卑狗の倭国に再度討伐軍を派遣して倭国を滅ぼした第三次倭国大乱と、その後の史実に対応するのだ。記紀では真相を隠すためにデタラメな話で粉飾している。ヒルコは高天原を追放されたスサノヲともとれるが、大国主の子の事代主も大国主自身のこととも考えられる。ここではエビス様もまた狗古智卑狗と考えておく。各地の神社伝承も記紀に合致するものはヤマト政権によって作られたものなのだ。しかし、本当は何であったのかは祭神名を隠したつもりでも、隠しきれるものではない。下の図は台与と狗古智卑狗の倭国を滅ぼした後に、日本建国で非業の死を遂げた卑弥呼と台与と狗古智卑狗が怖ろしい怨霊になって天変地異を起こすと考え、祟られないように丁重にゆかりの地の神社で祀っていることを示している(注4)。



真相は、その地で再び宗像海人族が台頭するのを怖れ、九州宗像の周辺には物部氏を配置したということなのだ。また出雲の西にも物部氏を配置して、出雲国造家にアメノホヒの末裔を充て、大国主の霊を鎮めたのだろう。

山岳信仰が、日本古来の古神道や、伝来してきた仏教(特に天台宗や真言宗などの密教)への信仰と結びついて、「修験道」とされる独自の宗教が生み出されたと言われる。そこでは台与を富山・新潟で白山比売や菊理媛と名前を変えて祀っているようだ。(注5)弥彦神社に尾張氏の祖天香山命を配置したのも宗像海人族の勃興を抑えるためなのだろう。

つまりヤマト政権が最も恐れたのは、奴国の大王素戔男尊(スサノヲ)の直系の大国主命(狗古智卑狗)と宗像海人族の奉祭する神々(イザナミと同じ母系である卑弥呼と台与)なのだ。(2022.1.16 青字訂正)

この三柱の怖ろしい神の祟りを畏れて、この神々の鎮魂のために福を呼ぶ立派な神々だと持ち上げているのだ。


ここまで分かってしまうと七福神の謎は解けたことになる。弥勒菩薩の化身が布袋なのだが、実は宇佐神宮の神宮寺の名前が弥勒寺であることからそこで大国主命狗古智卑狗をご本尊弥勒菩薩として祀っていたと分かるのだ。記紀神話のアマテラス女神の子天之忍穂耳命の本地仏弥勒菩薩としているが、アマテラス女神は第19第奴国王天照大神尊ニギハヤヒからすり替わった持統天皇のことだから、天之忍穂耳命から日向三代は作り話と考えている。

そして、最後の謎の毘沙門天も、物部・尾張勢に取り囲まれて高良山で壮絶な戦死を遂げた狗古智卑狗を持ち上げるために戦(いくさ)の神様としたのだとわかる。だから毘沙門天も大国主命の本地仏であると推理できる。

そうなると武士が台頭する時代に武家が八幡大菩薩を守り本尊としたのも、応神天皇自身は武力による功績はほとんどなく(注6)、三韓征伐や仲哀天皇の皇子との戦も神功皇后のものだから、後ろに居る父の大国主命が護国霊験威力神通大菩薩=八幡大菩薩の正体なのだと分かる。宇佐神宮でも本来は応神天皇の父で真の八幡大神狗古智卑狗を祀るべきなのだが、建国の真相をあからさまにすることになるので、朝廷に憚り一之御殿に応神天皇を八幡大神として祀ったものと考えられるのだ。(2023.5.29 赤字追加)

つまり、七福神の六柱までが大国主命狗古智卑狗で、紅一点弁財天が卑弥呼なのだ。

そうなると台与はどこに行った?

実は福禄寿と寿老人は同一神なので、寿老人の代わりに吉祥天が入っているケースがあった。Wikiによれば、「仏教においては、父は徳叉迦(とくさか)、母は鬼子母神であり、夫を毘沙門天とする」とあり、毘沙門天の妻ならば台与のことだ。吉祥天は羽衣を纏った天女であり、羽衣伝説が各地にある。伝承はそれぞれ多少違うのだが、共通する部分は、水浴びしている天女の羽衣を男または老人が奪ったので、返してもらうために福を授けるというものだ。男とは結婚して子を授かっている。つまり老人の狗古智卑狗と結婚して応神天皇を産んだ台与を暗示する話なのだ。いつの間にか、七福神から外されているが、吉祥天を加えた八福神として信仰している地域もあるとのことだ。

(注1)宗像大社の三女神の主神がイチキシマヒメであり、宇佐神宮の比売大神である邪馬台国の卑弥呼(ひめこ)のことだ。
弁天様が卑弥呼だよ(^_-)-☆
「卑弥呼」神社は五万とあるよ(^_-)-☆


(注2)スサノヲが師升らのクーデターによって殺害され、その子(初代狗古智卑狗で木の神久々遅命であり五十猛命と同一人物か)がスサノヲの母イザナミの宗形海人族(米子を根拠地とする)に育てられて、成人して半島南部の鉄素材を入手し、出雲から日本海沿岸部を支配する王に推戴されたと考えている。その直系の男子が代々久々遅彦(狗古智卑狗)として出雲・丹波王の王位を継いだと考えている)。丹後半島に鍛冶製鉄の拠点を作り、父の弟で奴国の大王位を受け継いだ天照大神尊ニギハヤヒに鉄製武器を供給し、ニギハヤヒの吉備平定を助けたと考えている。また、大国主と少彦名の神話から丹後半島の西側の円山川から朝来を経由して、あるいは由良川から福知山を経由して加古川を下って播磨・淡路島さらに摂津・河内・大和へも青銅製農工具などを供給し、ヤマトの開発・発展に寄与したのではないかと考えている。勿論、敦賀から琵琶湖に入り、淀川を下って摂津や河内から大和入りするルートもある。

(注3)「魏志倭人伝」に登場する狗奴国王卑弥弓呼を、吉備を平定しヤマト王権の基礎を築いた奴国の大王天照大神尊ニギハヤヒの直系の大王で、旧奴国王族を纏向に集めたハツクニシラススメラミコト崇神天皇のモデルと推理した。ここから、狗奴国の官狗古智卑狗が出雲・丹波の王で武内宿祢のモデルであると考えた。同様に纏向遺跡で出土した外来土器を参考にすると、仲哀天皇は、纏向の狗奴国に集まった旧奴国王族の有力者でニギハヤヒを祖とする尾張王と推理できる。神功皇后のモデルは卑弥呼の宗女台与であり、越・近江を含む日本海沿岸部を支配していた宗像海人族であると推理した。台与が西晋または魏に贈った青い大勾玉は、日本では珍しい糸魚川産の青ヒスイと考えられ、越を支配していたからこそ贈ることができたものと関祐二さんも推理した。阿蘇山で採れるガラス製という説もあるようだが、阿蘇も支配下に置いていたと思われる先代の卑弥呼が魏に贈っていないので青い大勾玉は天然ヒスイと思われる。また神功皇后は気長足姫(おきながたらしひめ)で、父は開化天皇玄孫・息長宿禰王とあるので、後の近江の豪族息長氏の祖と考えられることから近江も支配下に置いていたとした。


糸魚川天然青翡翠(ヒスイ)勾玉


また、倭国に来ていた二人目の魏使張政の進言で台与を女王に立てた模様で、帯方郡址の墳墓から太守張撫夷という塼が発見されているので、東夷の倭国を手なずけた功績で太守に出世したのだと考えている。

(注4)狗古智卑狗と似た読みである久々遅彦(久々遅命)は兵庫県豊岡市の久々比神社に祭神として祀られていることから、豊岡を根拠地として出雲・丹波を支配していたものと考えられる。その相殿には大国主命とその妻とした宗像三女神の多紀理比売命(タギリヒメ)を祀っている。つまり、多紀理比売命は台与のことだろう。また田木津姫(タギツヒメ)も物部氏の『先代旧事本紀』では後に大己貴神(大国主命)に嫁ぎ、八重事代主神と高照光姫命を生んだとタギリヒメと同じ話が記されているから、三女神のイチキシマヒメが主神であり、それを誤魔化すために残りの二人の伝承が作られたのだ。それを知ってか、安心院町の三女神社の鳥居のひとつには「二女神社」と書かれた扁額を掲げていることからも分かる。つまり比売大神は卑弥呼だけであったのを台与のコピーを二人にして卑弥呼と一緒に三女神として祀ってそのことをカモフラージュしたということなのだ。

勿論、帥升(正しくは師升)のクーデターで残酷な拷問を受けて多分殺されたスサノヲ(第18代奴国大王)も祟るはずなので、熊野本宮大社を始めとして各地で祀られている。多分、金印のありかを白状させ、師升が奴国王として振る舞うためだろう。金印が手に入れば生口を160人も連れて行く必要が無かったのではないか(^_-)-☆

(注5)與止日女神社は佐賀市周辺の淀姫神社でも祀られている淀姫が祭神だが、記紀神話では神功皇后の妹の豊姫とされている。だがヨドは台与(トヨ)の文字を入れ替えただけの隠語なのだ。また、菊理媛(ククリヒメ)は久々遅彦と「クク(空侯、虚空)」が共通するから台与を連想させる。ヤマト政権に憚って台与を祀ることを隠す目的だったのだと分かる。台与は記紀に登場する神功皇后のモデルで、鉞(まさかり)を武器にして戦った女傑として描かれている。恐らく吉野ヶ里遺跡に立て籠もっていたが、第三次倭国大乱ではオオタラシヒコ(景行天皇)の軍勢に包囲され、背振山系から伊都国に落ち延びて半島へ逃亡しようとしたのではないかな(^_-)-☆だが、伊都国でまたヤマトの軍勢に包囲されて、その地で壮絶な戦死を遂げた模様だ。平原王墓が台与のものだと見ている。そのイメージから、台与の鎮魂のために甲冑姿の女傑として持ち上げたのだろう。神功皇后の三韓征伐は4・5世紀の倭の五王の時代の事績なのだ。

(注6)八幡大神は軍神とされていますが、三世紀後半の日本建国の戦乱で八幡大神大国主が主役として活躍したからなのです。しかし、不比等はあくまでも建国の史実を隠したかったために国譲り神話を創作し、8世紀半ばに藤原氏が八幡大神を八幡大菩薩応神天皇にすり替えたのです。そのために、隼人の反乱で勝利したためという故事も創作したと見ています。wiki「隼人」によれば「隼人が文献上多く登場してくる7世紀後半 - 8世紀代の墓の遺構については、現地九州南部ではほとんど検出されておらず、確実に「隼人の墓」と位置づけられる墓制は、現状では不明といわざるを得ない[39]。」とあり、土蜘蛛や熊襲と同様に創作した、大国主配下の縄文系ムナカタ族の人々と推理しています。阿多隼人という種族はムナカタ族の祖神アタカタスノミコトを連想させます。愛宕権現はその子孫である卑弥呼の弟赤坂比古の鳥栖市にある巨大円墳愛宕神社古墳の墳頂にある石祠から推理しています。

藤原氏は大国主命の正体を隠すために、数えきれないくらいたくさんの別名、分身を作って分からなくしています。しかし、宇佐神宮の神宮寺が弥勒寺ですので、本当の八幡大神大国主久々遅彦(狗古智卑狗)の本地仏が弥勒菩薩だと分かりました。これによって七福神の謎も分かりました。

日本の神仏習合が本格的に始まったのは不比等が原八幡神卑弥呼の痕跡を跡形もなく消そうとしたので、卑弥呼にゆかりのある法蓮上人が進言して大国主を八幡大神とし、卑弥呼を八幡比売神として祀らせたことから始まったと推理しています。

【関連記事】
大野寺 しだれ桜 『弥勒菩薩と布袋・大黒天の共通点』


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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2 コメント

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Unknown (light77g)
2022-01-18 16:14:30
こんにちは。
またたくさん応援をありがとうございました。

>大黒天は、最澄が比叡山で台所の神様として祀ったのが次第に人々に拡がったとも言われている。
>その名前から出雲神話の大国主命が神仏習合したものだとすぐわかる。

天台宗の最澄さんが関わっていたのですね。
研究範囲が広いので驚きます。お疲れ様です。

七福神の謎、おもしろく拝読しました。
いろいろと謎があるのですね。
Re:Unknown (刮目天 一(はじめ))
2022-01-18 16:59:25
何時もいいコメントありがとうございます。
最澄さんの弟子たちがたくさん国東半島の六郷満山に来て修行をしたそうですね。大国主を大黒様に習合させたのも彼らのようですね。わたしはネットサーフィンで得られた知識ですから、じっくりと深く勉強していません。広く浅くですね(*^-^*)
しかし、当時の人々の神への接し方が面白いですね。怖れるだけでなく、誉めたり、すかしたり?やはり神は人間だったということを教えてくれましたよ(^_-)-☆
またよろしくお願いします!

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