天川貴之 理念哲学講義録 哲学的エセー

無常から絶対無にいたる哲学の実相を平易なことばで綴り、人生に即した叡智のあり方を解きあかす。

9-7④「カント哲学の本質とその限界について」天川貴之

2018年08月16日 | 哲学(本文)
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あの稲盛和夫をして
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『理念哲学講義録』
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理念哲学講義録~哲学的エセー~天川貴之
第九章 経験と叡智的直観について


第七節 カント哲学の本質とその限界について④


カント自身は勿論、実践理性批判の中で述べられている通り、
理念を前提としているから、
そこから要請されるところの、
人間観、世界観というものを構築している。
理念、もっと言えば、
また、霊的現象というものも含まれるが、
このようなものを前提としなければ、
カントの実践理性批判は著述できないし、理解できない。
したがって、その真髄において、
カントはスウェーデンボルグというものを、
認めていたと理解して良いだろう。
そのようなこともおそらくあるであろうという、
認識は持っていたであろう。
そしてまた、実践理性批判を、
純粋理性批判、また判断力批判と共に著述することによって、
カントは、宗教の領域にもその場所を開け、
学問が、その学問としての領域を、
その学問の出発点である哲学が、哲学としての領域を、
ここからここまでであるという可能性と限界を、
近代的要請の立場から規範として打ち建てたのである。
その不可知論を逆手にとって、カント以降、
そのような理念の世界が存在しないというふうに流れ、
解釈したのは、カントを卑小化し、
カント哲学を、むしろ価値無き哲学としている考え方である。
カントの本心というものは、
理念が存在するという確信から成り立っているわけである。
それは、プラトンと同じ立場であるし、
キリスト教や、仏教や、その他のものとも一致する。
このカント哲学の立場を受けて、
オカルトというもの、
例えるならば、啓示というもの、神示というもの、
また様々な霊的現象というもの、
こうしたものに対して、オカルトという位置づけをなし、
そして、それは本当だとも言わない、
そして嘘だとも言わない。
懐では、そういうこともあるだろうと思いながらも、
自分自身の言論人、学者、哲学者の立場からは、
解からないという答を出す。
これが、現代における、
カントの正当な考え方を受け継ぐ立場ではないかと思うが、
それだけでは、
新時代の精神というものが開けてこないのも事実である。




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