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ノートルダム大聖堂に残された謎!錬金術師にしか読み解けない秘密の暗号!

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先日、ノートルダム大聖堂が炎上!というニュースが流れました。名前は知っているけどノートルダム大聖堂って何なんだろう?と思ってザッピングしていたら、岡田斗司夫さんが解説している動画を見つけたので視聴。ちょっと難しかったけどまとめてみました。

 

 本当は怖いノートルダム

ノートルダムの鐘(原作)

ディズニーによって映画化されていたり、劇団四季によって舞台化もされているノートルダムの鐘。聞いたことはあるけど、どんな物語か詳しくは知らないという方も多いと思う。

原作はユゴー作の「ノートルダム・ド・パリ」。結構な長編で読み切るのは、苦痛というくらい面白くないという。これは、当時のフランス人にしかウケない内容になっているためで、現代の私たちには、少々刺激が少ないためだ。

原作を読まずに内容を理解するには、「トキメキ夢文庫 ノートルダム・ド・パリ」という本がおすすめで、漫画とイラストで小学6年生までの漢字で読めるようになっている。さらに100分 de 名著の『ノートル゠ダム・ド・パリ』をガイド替わりに使うとよりわかりやすい。

後に映画やアニメにされた時には、この原作がメチャクチャに入れ替えられているので、原作を知っておくと面白いと言う。ではどの部分が変えられているのだろうか?

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この本の何がいいのかというと、シンプルな登場人物の関係図が出てくるところ。右上が愛の象徴・エスメラルダ。右下がフロローというノートルダム寺院の司教補佐。左下がカジモドというせむし男。左上がイケメンでリア充のフィーバス護衛隊長。このフィーバス隊長には婚約者がいるということは、映画版やディズニーでは全て省かれている。

エスメラルダが純粋に愛を捧げる男のゲス男っぷりというのは、本当は描かなければならないのだが、それを描くと映画やミュージカルにならないので全て飛ばしているという。この関係図が冒頭にあることで、凄くわかりやすくなっている。

もう1冊の100分 de 名著の方は、ユゴーの作品に対する分析は浅い。だが、当時のパリの情景や、なぜこの作品が書かれたのかという背景はかなり深い。この中ではっきりと書かれているのが、これはアイドルに恋をした2人のオタク青年の話であるということ。中心のテーマは、モテない男の愛は報われないということなのだ。

フロロー司祭もカジモドもエスメラルダを愛してしまうのだが、エスメラルダは見た目がいいという理由だけでゲス男であるフィーバス隊長を好きになってしまい、それは最後まで少しも変わらない。

ではなぜこんな話を書くのかというと、怪物が美女に恋をしても悲劇しか生まないということなのだという。これをわかりやすく映画にしたのが「ノートルダムのせむし男」になる。さらにこれを方案すると「キングコング」になるという。

カジモドがエスメラルダをさらってノートルダムの塔をどんどん登るというのは、キングコングがヒロインをさらってエンパイヤステートビルを登るというシーンでオマージュされている。

ノートルダムの鐘(ディズニー)

1996年ディズニーによってアニメ映画化された。劇団四季のミュージカルもこれが元になっているので、劇団四季のミュージカルを見てユゴーのノートルダム・ド・パリをわかったと思ってはいけない。

ディズニーアニメでの最大の変更点は、ハッピーエンドとカジモドにガーゴイル(石像)の友達がいるという点。さらにフィーバス隊長をヒーローにしたため、嫌な奴ではなくなっている。

原作では、理性の人であり錬金術師でもあるフロロー。そんなフロローが、ジプシー娘に恋をしてしまうという矛盾がフロローの面白さだったのだが、ディズニー版ではこれをバッサリと切って単なる悪役にしてしまった。

カジモドは原作では、体が奇形というだけでなく、鐘を突いているので耳が聞えなくなっている。さらに性格は意地悪だとはっきりと書かれている。そんな見た目も中身もひどい男が、純粋にエスメラルダに恋をしてしまったというのが面白さになっている。

だがディズニー版では、それらの設定を全て切り捨て、心の綺麗なモンスターとしている。ラストシーンでは、悪役であるフロローがカジモドとエスメラルダを塔の上から突き落とすのだが、原作ではこれが逆になっている。

全体の話は、ピノキオにフランケンシュタインを足したような感じになっているという。ゼベットじいさんに育てられたピノキオが人間になりたいと冒険するのがピノキオだが、ノートルダムの鐘では、錬金術師のフロローに育てられた怪物カジモドが、最後には育ての親であるフロローを殺してしまう。

ピノキオとフランケンシュタインの話を合わせたものを、ハッピーエンドのミュージカルにしてしまうという荒業で仕上げてしまったのがディズニーなのだ。モテない男は報われないという原作をどうにかして、そうではない話にしようと試行錯誤した結果、たどり着いた答えだった。

 原作者ヴィクトル・ユゴー

ノートルダムの鐘を書いた時は、まだ29歳。若い頃から好機に恵まれトントン拍子に出世していく。当時フランスは、時代がどんどん切り替わっていく最中で、王政⇒フランス革命⇒ナポレオン登場⇒王政復古⇒ナポレオン三世⇒共和制と流れていった。ユゴーはだいたいどの権力とも揉めながら、最終的には和解して勲章をもらったりしている。

そのため、他国での亡命生活が長かった。代表作のレ・ミゼラブルを書いた時は、イギリスに亡命しており、作品が売れたのか気になったユゴーが出版社に『?』1文字の手紙を送ったというのは有名なエピソード。

レ・ミゼラブルはフランス革命を英雄的に書いたもので、ユゴー自身も英雄として国葬された。ユーロになる前の5フランの紙幣に描かれていたほど。国民から尊敬されるフランス文学の父だ。

ノートルダムの鐘は、1482年という時代設定で書かれている。これは、ユゴーが作品を書いた350年前になる。ものすごく古い時代劇として書かれたのだ。舞台となったフランスでは、グーテンベルグが聖書を印刷した時代、カトリック教会が神は教会にいると言っていた時代から、聖書の言葉の中にいる、私たちの心の中にいるとなっていった時代になる。

その後、ルターによるプロテスタントが始まる。その運動によってノートルダム大聖堂をはじめとするゴシック教会は、破壊されてしまう。さらにフランス革命の後、キリスト教への風当たりが強くなり、ノートルダムは悪の要塞とされ内部を徹底的に破壊された。

この頃のユゴーの心情は複雑で、フランス革命の理性が全てということは共に運動していたので信じていた。だが、その後のナポレオン混乱期というのは大嫌いなのだ。古いパリが好きで、合理主義者にノートルダム寺院を破壊されるもやはり嫌だった。

当時、フランス政府によりノートルダム寺院破壊は、決定していた。だが、反対者たちの活動により実行は、先伸ばされている状況だった。そんな時に、ノートルダム寺院は必要だとプレゼンするために書かれたのがノートルダム・ド・パリだった。

フランス国民にフランス革命の合理主義をちゃんと説明した上で、ノートルダム寺院は必要だと説明しなければならなかった。そのために登場人物であるフロローの口を借りて、ノートルダム寺院を石の書物と言わせたのだ。

紙の書物というのは、誰にでもわかる言葉で書いてある。それは印刷ができて複製ができ、パリに住んでいなくても世界中のどこでも読める。ネットがあれば本なんて無くてもいいという風潮と似ている。

ユゴーは、そうではなくてパリに住んでノートルダム寺院を見なければわからないこともあると主張したのだ。ではユゴーが残そうとした石の書物とはなんだったのだろうか?

 ノートルダム寺院は石の書物

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 特徴的な形をしていて上から見ると十字架の形をしている。これが建物でなく、書物であったというのがユゴーの考え方だ。20世紀フランス最大のヘルメス学者として知られるフルカネリ(偽名)は自身の著書で、ノートルダム寺院やヨーロッパ各地のゴシック寺院に掘られているレリーフは、一見キリスト教の聖人やエピソード集に見える。だがそこには、錬金術師だけにわかる記号や方程式が隠されていると書いている。これを神秘主義、別名ヘルメス主義と呼ぶ。

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寺院の入口に掲げられたレリーフには、聖母マリアが掘られている。なぜ聖母マリアだと言えるのかというと、女性が王座に座っているため。もともとノートルダムという寺院そのものが、聖母マリア教会なのだ。

ノートル(我々の)ダム(女性)という意味で、ノートルダムは聖母マリアを指している。ノートルダム寺院はキリストを形の上で祀っているが、キリスト教寺院ではない。左手に持っている杓は世界の統治権を表しており、マリアが現実世界の王として君臨しているのを意味している。

右手には2冊の本を持っている。1冊は開かれており、もう1冊はベルトで封印されている。開かれている本は、顕教を表しており、閉じられた本は密教を表している。開かれいる本は、誰にでも開かれている聖書であってキリスト教。閉じられている本は、一部の人にしか見せられないとされている錬金術、ヘルメス主義のようなものを表している。

つまり、キリスト教とその背後に隠されている錬金術というものを、このレリーフは表している。この建物のレリーフは、すべてこのような二重構造で意味が秘められているというのを宣言するレリーフになっている。

マリアの前にある九段のはしごは、黄金を錬金する時に必要な九つの化学反応の段階と錬金術師が持たなければならない9種類の忍耐を表すと言われている。

このようにキリスト教的に解釈しようとすると、まるでわからないが、錬金術的に解釈するとはっきりスッキリとするのだ。

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 これは女性がグリフォン(鷲)を抱いているレリーフ。グリフォンは、鷲の頭と胸を持ち、その他はライオンという想像上の生き物だ。この生物は、モンスターというのが一般的な通説だが、錬金術的には違う。

鷲というのは、気体や風を表しており大気現象を意味する。錬金術としては「昇華」を表す。昇華というのは、個体が液体を経ずに気体化すること。高音に熱せられた水銀が、不純物を取り除く昇華作用の過程を「鷲」と錬金術師たちは呼んでいた。

ライオンは、あらゆる獣の王=金属の王である金を表し、金の製錬には水銀が必要だということをグリフォンで表しているという。ノートルダム寺院はこのようなレリーフで溢れている。

フリーメーソンの誕生

フランスにルネサンスの嵐が吹き荒れた時代。それは秘密主義ゴシックの終わりの時代でもあった。つまり、神秘主義が終わって理性主義が始まったのだ。このルネサンスのことをフルカネリは、安っぽいイタリア人の合理主義と言い放っている。

「ルネサンスと呼ばれる物事の表面しか見ないバカ共の思想」

フルカネリは、理性主義をそういうふうに捉えていた。ルネサンスが蔓延り、フランス革命で世界が科学の時代を迎えた時に、イギリスでフリーメーソンが生まれた。

フリーメーソンは、14世紀ごろの石工の集まりだった。だがルネサンスにより石建築が減少、レンガなどに代替えされて石工の組合は小さくなっていった。それが17世紀ぐらいになり、建築や石屋とは関係なく貴族や知識人を入れようという雰囲気が高まり、変質してしまった。

この時にフリーメーソンは、職人団体から友愛団体へと鞍替えする。この新しいフリーメーソンは、現在のフリーメーソンに繋がる団体だ。つまり、今のフリーメーソンをどんなに調べても中世の石を掘っていた錬金術のフリーメーソンは、全くわからないのだ。

錬金術に関して知ろうとすると、ノートルダム寺院などを建てた初代フリーメーソンを知る必要がある。レリーフを作ったのは、石工たちなので石工たちは錬金術を知っていたのだろう。

今のフリーメーソンは、初代から受け継いだ秘密主義を形の上で受け継いでいるだけで、その中身は無い。彼らに錬金術の知識は引き継がれてないのだ。

 なぜ錬金術は秘密にされたのか?

錬金術という素晴らしい知識は、ノートルダム寺院をはじめとするゴシック寺院にレリーフとして残された。ではなぜ、このように一般人にはわかりにくく残されたのか?

地域を持つ者は、その知識を世界に与えるかどうかの責任を持つ。この考えが、ゴシック時代の錬金術師の末裔たちの考え方になっている。現代の科学者たちの特許主義、発表主義とは全く違うのだ。

現代は、良いように解釈すれば得た知識を隠す権利がない。一瞬でも早く発表して、その知識が良く使われるのか、悪く使われるのかは、人類に任せようという性善説で成り立っている。

逆に悪く言えば、発見したものをいち早く発表して特許料や栄誉を得たいという人間の功名心が、現代科学を発達させているという側面もある。

錬金術師たちは、責任感のある科学者なのだ。自分たちが持っている科学知識は、使い方によっては破壊兵器も作れてしまう。特に水銀は、人を死に至らしめる劇薬であるということを身を持って知っていた。

だが彼らは数百年間、それを発表しなかった。責任感のある科学の錬金術と責任感のない科学の論理。私たちは、歴史の結末としての責任感のない科学しか知らない。責任感のある倫理の科学というものは、途絶えてしまったのだ。

現代では、人間のコピーを作ってしまってもいいのか?ということは、その都度ごとに議論して決めようという開かれた体制になっている。だがユゴーがいた時代は、フランス革命で宗教に光があたり、宗教で全てが合理的に説明できるようになり、錬金術師たちの考え方は否定された。

ユゴーは、それを良しとしながらも、必要とされる責任がある者だけが知識持っていればいいじゃないか、という前時代の考え方が残されているノートルダム寺院の破壊には反対だったのだ。

ヘルメス主義から見ると、現代の科学というのは安っぽいイタリア人の合理主義であって、ルネッサンスと呼ばれる表面しか見ないバカ共の思想。錬金術の秘匿性や閉鎖性は、責任感の故だったのだ。

面白いことにノートルダム寺院を建てた石工たちが、誰だったのか?誰がこのレリーフを残したのか?などの記録は残っていない。現代の私たちが、自分が何を作ったのかと銘を入れるのとは正反対なのだ。

プロテスタントにより、ノートルダム寺院の装飾は削り取られ大聖堂は廃墟と化した。これは歴史的に本当に起きたこと。だがユゴーがノートルダム・ド・パリを書いたおかげで、国民全員に大聖堂復興運動が起こり、1983年、破壊指令から50年経ってフランス政府は、この破壊指令を撤回して全体補修を決定した。

現在、パリにあるノートルダム寺院は、ユゴーによって修復された。今回の火災からもきっと人々の強い意思によって修復、再建が行われるはずだ。

 

世界遺産ノートルダム寺院の火災事故に哀悼の意を表します。

 

おまけ(ノートルダム・ド・パリのネタバレ)

ノートルダムの鐘の原作「ノートルダム・ド・パリ」の結末を凄く完結に教えてくれていたので、書いておきます。自分で読みたい、ネタバレは嫌だという方は読まないでください。

 

この作品は、恋愛問題という合理主義では救えない人間たちの業を、1人の女を取り合う3人の男で描いている。

エスメラルダが死刑になりかけている時に、エスメラルダが愛したイケメンでリア充だけど中身はカラッポのフィーバス隊長は、彼女を見捨ててしまう。

エスメラルダは、カジモドが見ている前で絞首刑台に吊るされた。この時に、フロローは思い通りにならない女など死んだ方が良いと思い、心の中では悲しみながらも笑みを浮かべてしまう。

この笑みを浮かべたフロローを許せなかったカジモドは、フロローを塔から突き落として殺してしまう。

その後、幸せになったのは、イケメンのゲス男だけだった。だがユゴーは、フィーバスは結婚という悪の報いを受けたと書いている。ユゴーの結婚生活が、どのようなものだったか想像できる(笑)。

カジモドは、その後の詳細は不明だったが、後にエスメラルダの墓が掘り起こされた時にエスメラルダを抱きしめるように、体が奇形の骨が発見される。だがその骨は、掘り起こそうとした手が触れた瞬間に粉々になってしまった。

という少しロマンチックな終わり方で救いを出している。

ユゴーが書こうとしたのは、近代合理主義の中で消えていく錬金術というもう1つの科学のあり方、責任感を持った科学だった。合理主義では、恋愛という不合理なものは救えないという主張をしたのだ。