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明智光秀が大河ドラマになった理由!?実は正義の人だった説

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主君・織田信長を裏切ったとされる謀反人・明智光秀。しかし、最近彼への評価に変化が!明智光秀とはどのような人物だったのか?そしてなぜ、謀反を起こしたのだろうか?

 

 明智光秀の人気が急上昇!

1582年6月2日、戦国史上最大の事件が起こった。本能寺の変だ。言わずと知れた戦国武将・織田信長。この日、ある部下の謀反によって自害に追い込まれた。それは、天下統一が目前にまで迫っていた矢先のことだった。これまで仕えた信長を裏切った歴史に残る謀反人。それが明智光秀だ。

本能寺の変について歴史教科書にはこう書かれている。

「信長は、家臣の明智光秀の反乱にあい、京都の本能寺で自害した」

主君を裏切った明智光秀の人物像についてポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、当時の日本文化を記した日本史の中でこう綴っている。

「彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で独裁的。戦争においては謀略を得意とする」

裏切り、謀略、残酷、独裁的…そんな言葉で明智光秀を表す。日本の歴史上、最悪の裏切り者というイメージを持つ方も少なくないだろう。しかし、近年その評価が大きく変わり始めている。

小説、漫画、ゲームでは、有能な知識人、文化人として描かれているなど、信長の天下を支えた影のリーダーとして。さらに2020年のNHK大河ドラマでは、明智光秀が主人公に!今、その好感度は急上昇している。

裏切り者の明智光秀が正義の人に!なぜ評価が変わってきているのか?

明智光秀は、なぜ裏切ったのか?

個人的な恨み

明智光秀が主君・織田信長を裏切った理由は諸説ある。その1つが個人的な恨みによるもの。例えば、こんな話。

ある日、徳川家康を接待する場が設けられた時のこと。この時、接待役を任されていたのが明智光秀だった。京の町中で調達した食材を使い、料理を用意したのだが…。出された魚が腐っており、信長は激怒。明智光秀は接待役を解任されてしまう。

面前で激しく怒られ降格まで言い渡されたことに根を持っていたという説や、軍法会議で意見したことに腹を立てた信長に、面前で何度も蹴り飛ばされた。さらにこんな冗談のみたいな逸話も。

ある日、信長との約束事を破ってしまった光秀。ここでも激怒した信長が、光秀の頭を何度も殴りつけた。実は、髪が薄いことを気にしていた明智光秀は、常に付け髪をしていた。その付け髪が殴られたはずみで落ちてしまったのだ。それを見た信長に金柑頭と罵倒され、この仕打ちを深く恨んだという説。

信長に尽くす中で募った積年の恨みが爆発!個人的な恨みによる謀反。これが近年まで明智光秀が裏切った理由の根底となってきたが、信長と光秀の間には信頼関係があったとわかってきている。果たして2人の関係はどういったものだったのか?

信長と光秀の関係

武将・明智光秀は織田信長の家臣として仕えてきたが、実は当初、室町幕府15代将軍・足利義昭の家臣としても仕えていた。つまり2人の主君を持つ身だった。ところがその後、信長と将軍・義昭の関係が悪化。どちらか一方に付くことを迫れた明智光秀は、戦国の動乱を秩序あるものにできるのは信長だけだと幕府を辞める。その後、信長と敵対した足利義昭は京を追放されてしまう。

信長の下、政治や戦などで手腕を発揮し光秀は実績を残していく。その功績の1つが、現在の京都府と兵庫県にまたがる地域。当時、難攻不落と言われていた丹波の国を攻略したことだった。これにより丹波一国の領主となった明智光秀は、水害に悩まされていた城下町に河川の改修工事を進めた。さらに商業地区での税の免除などを積極的に行い、戦禍に巻き込まれた町の復興に尽力していった。

そんな光秀を誰よりも可愛がっていたのが、織田信長だった。明智光秀の能力を買い、信頼していた信長は、何かにつけて光秀を用いたと言われている。ついには織田家ナンバー2の地位となった明智光秀。それほど織田信長からの評価は高かったのだ。

一方、明智光秀も信長が戦国の動乱を治めてくれると信じ、忠義を貫いていた。その心を表すように、光秀が定めた家法にはこう綴られている。

「自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は、子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」

信頼し合う君主と部下。それが2人の関係だったのだ。それではなぜ、明智光秀は織田信長を裏切ることになったのか?

 長宗我部との交渉

この頃、四国では土佐に本拠を置く長宗我部元親が勢力を拡大していた。そこで長宗我部と同盟を組みたいと考えた信長は、光秀を交渉役に抜擢した。光秀は、四国全土を攻め落とせば、そのまま長宗我部の領土にしていいという信長の言葉を伝え交渉していた。

織田家の後ろ盾を手にした長宗我部は、その後も勢力を拡大。ところが、四国全土を手中に収めようとしたその矢先、約束したにも関わらず信長は突然、その領地を渡せと言い始めたのだ。

それを聞いた長宗我部は激怒。その前で何も言えない光秀。命令を聞かない長宗我部に対して信長は、四国全土を攻め落とすことを決定。最初から、四国全土の征服を目論んでいた信長の狙いに気がついた光秀。これで交渉役を勤めていた光秀の面目は丸潰れになった。

光秀は、天下を取るために手段を選ばない信長のやり方に疑問を抱くようになる。

信長の暴走

そして、光秀自信にも理不尽な命令が下された。信長に自身の領地であった丹波近江をすべて召し上げると告げられたのだ。必死に抵抗する光秀に信長は、お主に与えた領地はお主のものではないと一喝した。

信頼から不信感へ。光秀の信長に対する忠義が、徐々に揺らぎはじめていた。さらに信長の暴走は加速していく。国にの行事などを決める『こよみ』は、当時天皇が定めていた。ところが信長は、このこよみにまで口を出すようになったのだ。 そして信長に対する不信感をさらに深める出来事が起きる。

山梨に本山を置く寺が、織田軍と敵対する武将を匿っているという情報を得た信長は、その武将を征伐するため引渡しを要求した。ところが、この寺にいた快川紹喜はこれを拒否した。快川紹喜は、天皇から国師という称号を受けたいわば天皇も認める高僧だった。

要求を拒否した僧侶に対し、信長が取った行動は焼き討ちだった。信長は息子の信忠に100人を超える僧侶を寺に押し込み、火を放つように命じたのである。それは、明智光秀が謀反を起こすわずか2ヶ月前のことだった。

信長の行いは、悪政、横暴としか思えず、天皇を超える存在にでもなるつもりかと恐怖した光秀は、信長の目に余る非道を何とか自分が阻止しなければという想いになった。かくして1582年6月2日、明智光秀率いる軍勢1万3000人が上洛中の信長が宿泊する本能寺を包囲した。

全軍が本能寺に突入し、明智軍が瞬く間に寺を制圧した。燃え盛る炎の中で、天下統一を目前に織田信長は自害に追い込まれた。

信長を討った理由

それは本能寺の変当日、信長家臣宛に書かれた手紙の一部分、そこに謀反に至った明智光秀の心情が綴られていた。

 「父子の悪逆は天下の妨げ。討ち果たし候」

父子とは信長親子のことを指している。つまり、信長たちの悪行は平和の妨げとなる。だから討ち果たしたと明智光秀自身が明かしているのだ。

さらに2017年9月、光秀が反信長派の和歌山の武将・土橋重治に宛てた書状の原本が見つかった。日付は6月12日、本能寺の変からわずか10日後に書かれた、その書状にはこんな内容が…。

「上意への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。ご入洛の件につきましては、既に承諾しています」

上意とは、光秀が元々仕えていた室町幕府15代将軍・足利義昭のことだと推測できるという。そして入洛とは京へ戻ることを意味する。つまり、信長によって追放された義昭が京に戻ることを光秀が承知したという内容だ。

もしかすると、明智光秀は信長が起こした乱世を平穏だった頃の室町時代に戻すべきだと考えていたのかもしれない。本能寺の変の11日後、明智光秀は山崎の戦いで後に豊臣秀吉となる羽柴秀吉に敗れた。

その最後に彼はこんな言葉を残している。

「謀反人の汚名を着せられようとも、私の心は誰にも分からないであろう。なんと言われようとも構わない。命も名誉も惜しくはない」

1582年6月13日、こうしてその生涯に幕を閉じた。

裏切り者とされた明智光秀が、正義の人に評価が変わってきている理由、それは日本の未来を見据えて信長の横暴を阻止したという説が提唱されるようになったからだった。