あふれるほどの人混みは突然昔話のようになってしまった。一帯に自粛の要請がかかり、下りたシャッターに無念の言葉が貼り付いていた。廃れた通りは、すっかり過疎化した故郷を思い出させた。みんな家でおとなしく過ごしているのだろうか。
1人のクライアントに拘るな。チーフの言葉が頭の中を回っていた。1人のクライアントを大事にしろ。いったいどっちなんだ。矛盾の中で爆発しそうな頭を、アルコールにつけて冷やしたい。だけど、提灯の明かり1つ今夜は見えそうもない。雨。予期せぬ事態に傘もない。踏んだり蹴ったりの木曜日。
ふらふらと逃げるように横丁に入った。いつもは通らない道だった。少し時間を無駄にしてもいい。どうせどこかで道はつながることになっているのだから。雨は上がり、そればかりか月が白く輝いていた。壁の間から現れた黒猫が、音もなく歩いて行くそのあとに私はゆっくりとついて行った。猫は一度も振り返らなかった。美味しそうな匂い。暖簾が風になびいている。こんなところにも秘密の隠れ家は存在するようだ。
「いらっしゃい」
「開いてるんですね」
大将は怪訝な顔をしてみせた。
「向こうはみんな閉まってたから」
「まだ9時だよ。夜の魔物でも出るのかい」
ゲラゲラと常連風の客たちが笑った。
「はははっ」
誰もマスクもしていない。
「何しましょう?」
「ギムレット」
スピーカーから乗りのいいジャズが流れていた。壁に貼られた夏祭りのポスターは随分前のもので、隣のカレンダーもすっかりぼろぼろになっていた。2月29日。
そうだ。あいつの誕生日。