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ミュージカル【エリザベート】帝劇版と宝塚版の、ちょっと気になる違い

ミュージカル【エリザベート】帝劇版と宝塚版の、ちょっと気になる違い

 

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「明日、ぼく死ぬ日だ」

きのう、寝る前にそう言い放った息子。

 

「死にそうなくらい、忙しくてたいへん」

という意味にとらえたので、ギクリともしなかった。

 

早朝バイトからの通し稽古とか、深夜バイトが入っているのかと思いきや。

つぎのミュージカルの舞台で、自分が演じる役が命をたつシーンのお稽古に入るのだという。

 

親の期待に沿えず、自殺を図る青年の役どころというのは、以前から耳にしていた。

だが実際、その日が近づいてくると、お芝居だとわかっていても複雑な気分らしい。

 

先週末は、帝劇版「エリザベート」DVDを観ながら、皇太子ルドルフ最期のシーンを参考に、死に方について研究していた。

ピストルの持ち方や頭に当てる角度、そして果て方。

むだな動きがいっさいなく、スムーズな一連の流れ。

 

参考までにと、宝塚歌劇宙組バージョン(朝夏まなとトート)も再生してやった。

(演劇に必要な資料が、どんどん出てくる我が家笑)

 

そこでわたしは、おもしろいことに気がついた。

帝劇版では、ルドルフ自ら黄泉の帝王トートに口づけをし、死を選んでいる。

いっぽう宝塚版は、トートありき。

ルドルフは洗脳され、追い詰められた末に、消されてしまうような印象を受けた。

 

東宝ルドルフが意志を持った存在であるのに対し、宝塚ルドルフはひたすら受け身なのだ。

その理由はもちろん、宝塚では男役トップスター、すなわちトートを中心に物語が進んでいくからに他ならない。

 

もう一点、興味深い考察がある。

それはラストシーン。

エリザベートが、死の象徴であるトートと結ばれる、まさにその瞬間。

宝塚版では、求めていた場所へようやくたどり着いた深い安堵とともに、ふたりで昇天するのが定石だ。

しかし帝劇版では、花總まりさん演ずるエリザベートが恍惚の表情であるのに対し、井上芳雄トートの眼差しに一抹の不安、あるいは後悔のようなものが見え隠れするのである。

 

「これでよかったのだろうか?」

と言わんばかりの、迷いを示唆する瞳。

あれにはいったい、どういう意味があるのだろうか?

最後の最後で、トートが人間らしさを身につけてしまったという暗示なのだろうか?

 

息子はわたしの気のせいだと言うが、なにか別の意味があるような気がしてならない。

 

話はそれてしまったが、息子の(役どころの)死に際の振りは、どうついたのだろう。

演技とはいえ、わが子が亡くなるシーンはあまり見たくないな。

 

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