今しか耕せない。

ウィーンは深夜1時。

ついさっき帰宅しシャワーを浴びて、ジンジャーレモンティーをお供にここを開きました。今日はアトリエで少し早いクリスマス会をみんなで行いました。パーティーと言うよりは会が合う、そんな伝統的な方式を毎年あえてとっています。

 

料理をみんなで持ち寄り、調理して、テーブルもセットして、あるものでクリスマスツリーを作ります。時間になったら、みんなでツリーの前に集まって、一人ずつ朗読をします。ただ一人ずつ何の本からとか、何のテキストかとか、はたまた何語かも質問することなく淡々と順番が回ります。そして用意した食事を楽しんで、デザートの前に、ツリーの下からクリスマスプレゼントを。一人ずつ開けます。Wichtelnと呼ばれるシークレットサンタからの贈り物を楽しんであっという間に深夜になります。

 

私が用意したプレゼントも爆笑とともに喜んでもらい。

私も嬉しいものをもらいました。

 

ワインを片手に仲のいい友達が「将来のために」アート系の助成やプライズに応募の準備をしていると言う話をし始めました。彼女は韓国人で、韓国愛の強い人で、卒業後は韓国に帰ることを決めています。ただ私たちの今勉強している分野はファインアートとは厳密には呼べず、かといってこの数年ファインアートの賞を掻っ攫っている分野でもあります。そういう意味で、ヨーロッパ圏ではボーダレスな分野として認識されてもいます。ただ韓国では、この分野、同じクオリティで勉強できる場所もなければ発表できる土壌がありません。彼女はその現実に対して周りのファインアートの友人たちから「将来のために」ファインアートのプライズや助成金への応募を強く勧められているというのです。要は、すでに欧米圏ではその境界線はもはや消失しつつあるけれど、韓国では棲み分けられていて、持ち帰るのが難しい分野より、韓国社会に根ざしたファインアートの分野でまずは評価を目指すべきだ、ということです。本人はファインアートに嫌気がさしてこの分野にやってきたのに、そこに戻ることに抵抗がある、と言う話でした。簡単に要約すると、韓国式に自分を合わせなければ韓国社会では評価されないから、そこに戻れ、という話です。

 

彼女は私と同じ年齢です。

彼女が危惧することは自分のことのように理解できます。日本に置き換えても限りなく近い状況です。ただ日本の場合は輸入という形で、かなり小さな規模になりますがゼロではありません。それでも欧米圏やその近隣に比べたら「無い」とも言えます。オリジナルが無いに等しい。

 

つまりここで得たことを試す場所が自分の生まれ育った徒歩圏内にあるヨーロッパ出身者。それに対して自国に帰るということを想定したら、そういう道がなくなる私たち。彼女はそのことに不安を募らせているという、その「将来」の話でした。

 

同じ状況の私は、でも同じ悩みは抱えていません。

私はここに、私が今勉強したいこと、試したいことのために来ました。

でもそれは計画的のようでいて、偶発的な流れでそうなりました。

ウィーンの大学に行こうと目標にしたことはありません。

でも局地的に今と向き合っていく日々の中で、誰の元で、どこで勉強したいかを瞬発的に見極めてここに来ました。

 

いつも今と向き合っているだけです。

なぜなら、今どんなに数年先のことを計画したところで、それは簡単に自分自身によって覆ることを自分の人生で学んだからです。そもそも明日も生きてるかなんてわからない、と言ったら飛躍しすぎかもしれませんが。

 

私は将来のために生きるのを辞めました。

今生きてるから、今のことをしているだけです。

自分がやりたいからやるだけ、それを誰かが受け入れてくれるなら、一緒にやるだけ。受け入れてくれないくても、場所がなくても、やりたいなら続けるだけ。生きてるから続けるだけ。

 

時々、歴史上のマスターピース的作品を見ていて思うんです。

私は今から過去の作品を読み解いている時点で、永遠に真相にはたどり着けないのだろうなぁと。私が死んで、誰かが私の人生を現在から過去への流れで眺めたら、あぁこの人は海外が好きなんだとか、行動力のある人物だとか、そういう風に読むかもしれない。でも実際は理由は後から描かれるもので、先に事が起こっただけ、ということの方が私の人生の大半を占めているような気がしてなりません。

 

そんな掴みどころの無い人物の将来など、考えても仕方がありません。

あっ私のことです。笑

 

ただ、無いものは作ればいい。そうやって物事には必ず初まりがあったはずです。

その最初に立っているだけだと考えることも出来るかもしれない。

自分を苦しめる境界線は、律儀に守る必要はそんなにないかもしれない。

自由というのは多くは自分で制限をかけて、手が届かなくなるような気がする。

 

彼女の話を聞いていてそう思いました。

 

社会に居場所がなくなる不安で自分を圧し潰すより、目の前を淡々と耕して信頼できる風景を手に入れたいと思えないくらいに世界は周知のものしか存在できないの。そんな世界を信頼できるの、私はできない。

 

なんだかクリスマスに似つかわしく無い話をしたけれど、

でも久しぶりに自分がはっきりとした意見を言っているなぁと思いました。

 

このクリスマスツリーは誰も計画してないし、許可も得ていない。

ただアトリエで見つけたランプでツリーの形を描いて壁に貼っただけ。

でも伝統的なこの会にもよく似合っている。受け入れてくれたし、私は気に入っている。「あるべきもの」を集めるより、大事にできる。そう、思いました。

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