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甲斐源氏安田義定ゆかりの「牧ノ荘」を辿る⑯義定最期の法光寺(現放光寺)と鎧淵伝説・・・19-12

2019-12-10 | 山梨、往古の歴史と伝説!

甲斐源氏安田義定のことを詳しく深く学びたいと、往古の

「牧ノ荘」現山梨市牧丘町(旧中牧郷)を中心に、甲州市塩山

の一部ゆかりの地を辿って見た・・・。要点を抜粋して、

シリーズで要所毎にダイジェスト(15編)レポート発信して

来ましたが・・・、

前号の高橋山法光寺には、安田義定が開基しただけではなく、

義定の自刃と鎧淵伝説があるので、最終まとめの前に、放光寺

その②~として、今号は「鎧淵伝説」について簡単に紹介します。


YS記自習NOTE「安田義定ゆかりの牧ノ荘を辿る①~⑮」は、

いよいよ最終号になりました。テーマは「自習NOTEの⑲-2

義定の菩提寺「高橋山放光寺」における自刃と「鎧淵」伝説!~


放光寺裏から見る現在の「鎧淵」笛吹川鍛治屋橋から見る「鎧淵」

窪平の初老曰く「子供の頃から鎧淵と呼ばれていて、現在の鍛治屋橋から見る

鎧淵は知る人ぞ知る」であると伺った。※写真右が鍛治屋橋から見た笛吹川と鎧淵。


YS記:放光寺の裏庭の奥になるが、笛吹川から見上げる「鎧淵」は現在

切り立った断崖になっている。注)今は、放光寺の裏庭園からは覗けない。

如何にも、往古の伝説を彷彿する崖淵である。

義定最期の地(自刃の地)は、山梨市には3説ある!

その一つは、要害小田野山城と西御所へ追われ山麓で自刃した説。

一つは、窪八幡のミミンドウ自刃伝説であるが、何かものたりない。

そこで学習を深めて見ると、注視した一つは「放光寺大御堂と鎧淵伝説

の自刃説」である。そのことを詳しく紹介します。


「鎌倉大草紙」によると、義定謀反の由を梶原景時らが讒言した

ことによって、源頼朝は怒って梶原景時と加藤景廉を討ってとして

甲斐国へ発向させた。安田義定は放光寺において自害したが、

その後、義定の亡霊が荒れ出したので恐れをなして放光寺に多聞天を造り、

その亡骨を納め「法光禅定門」としたとある。

伝説によると、義定は館と領地のある甲斐に避難したが、追撃が厳しく、

義定夫人と二人の嫁女を三挺の駕籠で逃れるように図ったが、

途中、追い詰められて、笛吹川に身を投げ捨てて最期を遂げたと云う。

義定も建久5年8月9日に、放光寺まで逃げ延びて、身に纏っていた鎧を笛吹川に

投げ捨て、菩提寺高橋山放光寺(往時法光寺)の大御堂に籠もって自刃したと云う。

法名は「法光大禅定門」、享年は61歳であった。

この時、鎌倉より従った郎党も義定に従って殉死したと云う。

こうして安田一門は滅亡し、鎌倉の屋敷は北条泰時に、甲斐の所領

も東部の都留郡は加藤景廉に、東山梨郡は梶原の末子景則に与えられ、

鎌倉の頼朝により、悉く安田氏とその身内は抹殺されたようです。

梶原景則はここに住むようになってから、義定の亡霊に悩まされたため、

義定の木造を多聞天(毘沙門天)に掘り、放光寺に納めたと云う。

現在の尊像は、寛文5年に保田若狭守宗雪が修復したものであると伝わる。

以上、YS記自習NOTEで学んだ記録を複写したものだが、結論として力はあったが、

運に恵まれず、頼朝の影響もあり悲劇の武将だと云わざるをえないと考察している。


安田義定の自刃の地は、山梨市には、今も3ケ所伝わるが、筆者は、

放光寺での自刃説に信憑性を感じている。

未だ、謎は謎のままにしておきたいところもあるが・・・、

今後とも、ジックリと再検証し、史実と伝説をも重んじて、より

深く学びたいものである。もし、何方か造詣の深い方がおられたら、

できればデータベースで教えを乞いたいものと願っています。


安田義定ゆかりの地を辿っても、シリーズで学習すると

やはり大きな謎が生まれたが、これ以上、正しく詳しく解析する

術(すべ)は見当たらないので時間だけを要している。

①安田義定の開基した寺院は守護寺として館や要害城を基点にして

戦略的配置している。

②安田義定が勧請した神社は、鎮守集落の形成を図るために

配置している。

注)①②は往時の戦略的に配置したインフラ基盤であったかも知れない。

③安田義定は何故小原西に安田館を築いたのかに着目したが・・・、

大井俣八幡と窪八幡は、義定の八幡信仰と乾の方位に仰ぐ窪八幡宮で、

今流に見て、領有のベストな中心立地であったので選んだと見られる

安田館のあった小原西を起点に、現牧丘の”牧”を往来するため秩父往還を開き、

一ノ瀬高橋や黒川鶏冠山辺りの砂金採集にあたって、萩原口(後の青梅街道)

を開いたのではないかと考察できるが、往還の時代考証が不詳なので、

2地点を管掌するための好立地に館を構えたと見て間違いはないと云う結論。

④要害小田野山城の東城戸に妙高山普門寺、西城戸に旧蹟西源寺を創建した

のではないかと言うYS記の検証は、旧蹟西源寺は「井戸窪」に創建と云う

甲斐国志や牧丘町誌の記述と公図による字名「西源寺入り」とが異なり、

場所は特定出来ているが、結論に時間がかかっている。※昔は「井戸窪」!?

もしかしたら、また別の機会に発信することになるかも知れません・・・!?


 



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