2019年6月18日火曜日

【ixa/日本史】蘆名家&れんみつ姫編(10)~キャラ絵小話!シリーズ~

ixa/日本史コラム


関連する前回
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☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ編(9)

https://exp0stargalaxy.blogspot.com/2019/05/ixa.html
☝・・・シリーズ第一回はこちら




☝・・・キャラ絵小話! 蘆名家&れんみつ姫編、今回は10回目ということで、蘆名ー佐竹の白河戦役が終わってからの蘆名家について語っていこう。







☆官公庁のサイトより、南奥の伝統的な勢力図


☝・・・元亀年間から始まった白河戦役の終盤、蘆名方は佐竹方の攻勢に押されていた。 やがて白川結城家の事実上の当主・隆綱(のちの義親)が捕縛されることで同家は降伏、係争地の白川領が佐竹領となることでこの戦役は蘆名方の敗北に終わった。


その結果、石川氏や田村氏が佐竹氏に靡くなど、仙道南部における佐竹氏の影響力がいっそう大きくなることになる。 しかも、佐竹氏の攻勢はこれだけではとても終わりそうになかった。


と、思いきや、







☆『戦国大戦』シリーズより、北条氏政


☝・・・その佐竹氏の進撃にブレーキをかけたのが北条氏政である。 関東の雄・北条氏康の跡を継いだ氏政と、彼を総帥とした北条軍が、このころ佐竹氏に対して本格的な攻勢をかけてきたのだ。


北条氏と蘆名氏とは同盟関係にあり、これまで共同作戦が行われたこともあった。 このタイミングでの北条の北進は、もしかすると蘆名の要請によるものかもしれないが、それを裏付ける史料は見当たらない。


北条軍は氏政の弟・氏照を総大将として下野の国・小山氏や下総の国・簗田氏といった佐竹氏と親しい勢力に次々と攻め入り、そのいずれの戦場でも優勢であった。 そのために佐竹義重は対応に追われ、南奥へのさらなる侵攻はいったんお預け状態となったのだ。


南からの思わぬ援護を受けることで蘆名家はひとまず虎口を脱し、態勢を整える時間を得ることができた。 そのような状況であった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


さて、時の流れは少し行き違ってしまいますが、佐竹氏が白川領を占領した辺りか、あるいはその直前である天正2~3年(1574~1575)の頃のこと。







☆『千万の覇者』より、蘆名盛興


盛興 「グビグビ・・・


ゲホッ! ゲフッゲフッ! ヴっ・・・、!?」







ーーーなんと、蘆名の現当主・盛興が20代後半で病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのである。 その年齢があやふやなのは、いくつかの資料でバラツキがあるためだ。 この訃報に彼の妻・彦姫、父母である盛氏夫妻をはじめとした家族、そして蘆名家中ならびに領内の人々は悲しみに暮れた。


彦姫 「うぅ…。盛興さまの具合が悪いのは知っていました。でもこんな事になるなんて;;」

盛氏 「親より先に死ぬヤツがおるか・・・なんちゅう、なんちゅう馬鹿もんじゃ・・・」







彼の死について、蘆名家の家譜・家伝は詳しい記述・伝承を残さず、唯一、家臣の富田氏の史料だけが盛興の死因は「酒毒に因るもの」と伝えており、これを受けて通説では盛興はアルコール中毒によって死去したとされている。


盛興の死因・アルコール中毒について、これが急性なのか慢性によるものなのかは、今となっては知るよしもない。 ただ、盛興は今までの合戦に出陣していたようであるし、また彼がここ数年病弱であったという記録もないことから、急性の中毒であったかもしれない。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


【戦国武将と酒】


☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した福島正則


☝・・・蘆名盛興は酒をこよなく愛したわけであるが、盛興以外にも酒好きで知られる戦国武将は数多い。 そのなかでも無類の酒豪として有名なのが福島正則で、酒に関する逸話として母里太兵衛との「呑み取り・名槍日本号」の一件がよく知られている。


そのほかにも、上杉謙信が辞世の句で 「一期の栄え 一杯の酒 四十九年 一酔の間」 と詠むなど相当な酒好きであったことや、長宗我部元親も自らが定めた禁酒令を自ら破ってしまうなど、酒好きな武将とその逸話は枚挙にいとまがない。


それというのは、日本酒の醸造技術は時代を追うごとに徐々に発達していって、どうやら戦国時代には随分と旨い酒が市中に出回っていたようなのだ。







そのキーの一つが「清酒」の登場である。 そう、日本酒はもともと「どぶろく/濁り酒」であったと言われている。 通説では、濁り酒が清酒になることを発見したのは江戸時代のこととされているものの、それはあくまでも伝説であって、戦国時代にはすでに清酒/澄み酒が存在していたことは史料の上で確認されている。


二つ目のキーが、醸造周辺での技術革新・・・「大型の桶の登場」だ。 酒の仕込みについて、それまでは焼き物の甕(かめ)によって酒は仕込まれ、その量はせいぜい1~2石(一石=180ℓ)だったところを、大型の桶は一度に10石ほども仕込むことができて、酒を大量に醸造することができるようになったのだ。


この背景には、大工道具の「鉋:かんな」の伝来・普及が関わっている。 なんと、以前の日本には鉋が無く、板を作るのにも手斧(ちょうな)や槍鉋を使っての大変手間のかかるもので、しかも精密に作ることは難しかったという。 それが鉋が普及することによって精緻な板の製造が容易となり、その技術を発展させて大型の桶が作られるようになってきたというわけだ。


このように、複数の要因が重なって、今日に続く旨い日本酒(清酒)の礎は戦国時代に整っていったと言えるだろう。







☆『鬼武者ソウル』より、蘆名盛興


「酒は飲んでも呑まれるな」。 そういった格言が戦国時代にあったのかどうか私には分かりませんが、旨い酒のために蘆名盛興は命を縮めてしまった。 これは酒による失敗の最悪のパターンとも言えるが、愚かなゆえにかえって人間らしく、なんとも大らかな盛興という武将の素顔がうかがえるだろう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『のぶニャがの野望』より、ネコ化した蘆名盛氏


☝・・・蘆名盛興がこよなく愛した酒が清酒なのか、はたまた濁り酒であったのかは定かではない。 そもそも奥羽の地域において、当時どんな酒が出回っていたのかといったことも不明だ。 とはいえ、地産地消的な酒の生産と消費だったことであろう。


そんなところ、かつて蘆名盛氏は領内で2度ほど「禁酒令」を出していて、これは盛興の酒好きを戒めるための政策だったと考える史家もいるようだ。 しかし、わたし的にこれは直接関係が無いように思う。


というのは、日本の酒は米など穀物から作られていて、酒を造った分だけそういった穀物は減ることとなり、結果人々はその分飢えるからだ。 戦国時代は飢饉の時代とも言われており、決して食料が豊富ではなかったのだから、そういった時代では嗜好品を作ることは基本的には後回しにされる。 蘆名家の禁酒令は単純な食料政策として行われたのだろう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国ixa』より、蘆名盛興と彦姫


☝・・・このように、蘆名盛興は天正2年(1574)、あるいはその翌年に亡くなった。 そして、盛興の妻は伊達氏出身の姫・彦姫であるということはすでにお伝えしてある通りだ。


この夫婦の間に子供はいなかったのだろうか? 蘆名家について書かれたある資料では、彼らに子供は居なかったと言っている。


しかし、別の資料ではたった一人の姫がいたとも言われている。







☆『戦国ixa』より、れんみつ


☝・・・その、たった一人の姫というのが誰あろう、このシリーズのテーマであるれんみつ姫だ。


我ながら苦笑してしまいますが、今までが前フリ、知っておくべき蘆名家の前提知識ということで、皆さんを巻き込んで話を展開してきたというわけだ。


しかし、そんなれんみつ姫は、蘆名盛興が亡くなった時点ではごく幼い子供・幼児だったと思われるものの、いくつかの謎が彼女の周りを取り巻いている。







そういった謎についてはおいおい語っていくことにして、今回はこれにてお開きにしましょう。 次回をお楽しみにー。
(`・ω・´)ノシ


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。




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