「首里城」(沖縄県沖縄市)の「正殿」など7棟が焼失して2日目になりますが、「お城好き」の方以外からも「首里城」焼失に深い悲しみや失望を投稿する方が多数いらっしゃいます。

 

「御庭(うーなー)」を取り巻く建造物(奥から時計回りに、正殿、南殿・番所、奉神門、北殿)、これらが焼失。

 

昨日は、自分自身で、かつて訪問した「首里城」を思い起こすべく、PCに入れていた写真を見直していましたが、ブログで「首里城」に訪れた皆さんと共有したくて、また訪問されたことがない方にも見ていただきたくて、一部の写真ですが投稿しました。

 

一部の方からは、「続編があればブログして欲しい」とのコメントもありましたので、「琉球王国」に纏わる「城(グスク)」や遺跡などの写真を少し掲出したいと思います。「城好き」の観点から、ピックアップしてみました。

 

「首里城」の郭内の西端には、「玉陵(たまうどぅん)」と呼ばれる「琉球王国」の王「尚(しょう)家」の墓所があります。

 

「玉陵」正門

「玉陵」

 

こちらは、1501年に「尚円王」の墓所としたのが始まりで、その後18代「尚泰(しょうたい)」までの王や妃などの墓棺が納められています。

 

「玉陵」の中に納められていた「石棺」(戦前に撮ったもの)

「玉陵」の中に納められていた「石棺」(戦前に撮ったもの)

 

外観は、広大な敷地に重厚な切り石を積み上げたり、曲線を用いた石積みもあります。こちらも、太平洋戦争の影響を受けて、かなり損傷していましたが復元されていて、現在は非常に厳かな雰囲気に包まれています。

 

「玉陵」切り石を積み上げている

「玉陵」東室(洗骨後の王と妃が葬られた)

 

「首里城」の「正殿」等がある「御庭」の北側の城の下には、「尚家」の菩提寺であった「円覚寺」跡があり、こちらも戦争で焼失してしまった「総門」を復元しています。

 

「円覚寺」総門

 

「首里城」からは、少し離れた南西方向に、日本風に言うと藩主の中屋敷又は下屋敷に当たる「尚家」の「識名園(しきなえん)」という御殿と庭園があります。

 

1799年に造営されたこの御殿は、清国からの「冊封使(さっぽうし)」を接待する為に造られたもので、庭も中国洋式を採り入れています。

 

識名園御殿と石橋

識名園御殿赤瓦屋根の木造建築

焼失前の御殿(上の写真の右側)

御殿の大広間から二番屋、三番屋を見る

御殿の前の屋

 

「琉球王国」は、海洋小国で貿易によって成り立っていましたので、1609年の「薩摩藩」侵攻後も、以前より「尚家」が「清国」皇帝から「琉球国王」として認めてもらう為の「冊封使」を受け入れなければならないという苦しい立ち位置にあったので、「薩摩藩」の担当者とは切り離しができるこの場所を選んだようです。

 

回遊式庭園だが中国風の六角堂四阿が建つ

中国風の六角堂四阿

 

「識名園」も、太平洋戦争で建造物が破壊されましたが、大部分が復元されています。

 

以上見てきた3つの史跡も、「首里城」とともに、日本本土を守るべく太平洋戦争の犠牲になったことがお解りいただけたと思います。

 

 


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