先週の日曜日(10/27)ですが、吹田市の秋期歴史文化講座「戦国摂津からの天下人 三好長慶」(講師 天理大学准教授 天野忠幸氏)を聴講してきました。

 

講座のパンフレット

 

場所は、阪急南千里駅前の「千里市民センター 大ホール」でしたが、座席を約170人の聴講生で埋め尽くされました。写真は、まだ開演25分前ですので、空席がありますが、開演前になりますとほぼ満員となりました。

 

講演会場の「千里市民センター 大ホール」 開演25分前

 

何故、この講座に参加したかといいますと、

7月末に、「続日本100名城」に指定されている高槻市北部の摂津峡手前にある「芥川山城」に登城した時に、「本丸」跡で昼食後に同じように食事をとられていた方とご挨拶すると、その方から「ちょうけいファン?の方ですか」と聞かれました。

 

芥川山城の遠望

芥川山城の縄張り絵図

芥川山城の大手門跡石垣

 

一瞬、「ちょうけい?」と尋ねましたところ、「失礼しました。三好長慶(みよしながよし)ファンですか?」と言われて、ピンときました。

 

戦国時代の後半に「芥川山城」に居城していたのが「三好長慶」なので、そう思われたようです。特に、私は「長慶ファン」ではなく、お城ファンで登城していることをお話をしました。

 

少し立ち話をしているうちに、その方が名刺を出され「吹田市の文化団体協議会会長であり、吹田郷土史研究会会長」でもある博士の「藤原 学」さまで、実は10月末に、「天下人 三好長慶」をテーマに専門の方から講演をしていただくので、事前に写真を撮りにきていますとのことでした。

 

そして、別れ際にいただいたのが、冒頭で掲出しましたパンフレットで、お時間が有れば講演に参加してみてくださいと仰ってパンフをいただきました。

 

ということで、先週にその講演に参加したわけです。講演の最初に、「藤原 学」先生からご挨拶がありましたが、凄くお偉い先生のようでした。

 

「藤原 学」先生のご挨拶

 

講義は前述の「天野先生」から、レジュメをもとに約2時間にわたってお話をしていただき、私自身今まであまり知らなかった「三好長慶」を、エピソードも踏まえた「長慶」の人となりや彼の「天下人」に成るまでの戦略・戦術について、またその居城について等のお話をしていただきましたので非常に興味を持って聞けて、あっという間の2時間でした。

 

「天野 忠幸」准教授の講演

 

たまたま私は、6月に放映していたNHK番組「歴史秘話ヒストリア ”信長より20年早かった 最初の天下人 三好長慶”」を見ていましたので、少しは注目をしていたので、「芥川山城」から次に居城地を移した「飯盛山城」には、10月中旬に登城してきたところでもありました。

 

歴史秘話ヒストリアアで紹介された三好長慶と芥川山城のポスター

 

「天野先生」曰く、

・「三好長慶」は今まで殆ど評価されず戦国時代にも名前が上がらない摂津だけの有名人でしたが、今年に入り非常に注目され、特にNHKの「歴史ヒストリア」で採り上げられてからは、大人気となっているとのこと、先生自身も非常に忙しくなったそうです。

 

・実は、江戸時代の著書や宣教師が記載した書物でも多く取りあげられていて、当時の天下人の概念は、都があった「京」を抑えて「五畿内」を支配することが「天下人」だったので、信長よりも20年早く「天下人」となったと言われる由縁だとのことです。

 

・元々は、徳島県の西側にある現在「三好市」の出身でしたが、畿内で生じた「応仁の乱」等の争乱をきっかけにして、色々な戦略・戦術を駆使して摂津へ影響を及ぼしたようで、統治していた領地内の揉め事にも、積極的に関与して民衆には好かれる領主でもあったそうです。

 

・畿内進出には、西宮の「越水城」をスタートに、前述した「芥川山城」(大阪府高槻市)で一歩引いた場所から「京」を支配し、その後は大阪平野を一望でき大阪湾には川を使って経済的優位を得ることができる「飯盛山城」(大阪府四条畷市・大東市)に移ることで、経済的にも優位に立つことを念頭に置いたようです。

 

飯盛城の遠望

飯盛城の縄張り絵図

飯盛城址碑

飯盛城 御体塚郭下の石垣

飯盛城 展望台郭から一望できる大阪平野

 

・凄く興味を引いたのは、宣教師によるヨーロッパへの報告書であるシャトラン著「歴史地図帳 日本の統治者の変遷」では、「内裏(天皇)」→「公方(足利将軍)」→「三好殿→「信長」→「羽柴太閤様」→「秀頼」→「内府様(徳川家康)」→「徳川様」と、記載がある中に「三好殿」があります。これを見れば、外国からは「日本の統治者」だったとの認識があったようです。

 

・また、「三好長慶」の父親「三好元長」画像の着物に付く三好家家紋は「三階菱に五つ釘抜」ですが、「三好長慶」画像の着物に付く家紋は「桐御紋」です。「桐御紋」は、太閤「豊臣秀吉」が家紋として使用しましたし、現在でも政府からの発表事があれば演台正面に「桐御紋」が付けられているように、「長慶」は将軍並みの最高の家紋を当時与えられていたことがわかるとの事でした。

(冒頭パンフレットの右上にある「長慶」の着物に付く「家紋」は「桐御紋」です)

 

しかしながら、1564年に「飯盛山城」で病死しました。その後「三好三人衆」によって「三好家」を支えようとしましたが、その分裂を突いた「織田信長」によって滅びたとのことで、「信長」に「天下人」を譲ることになりました。

 

以上、「天野先生」のお話の一部ですが、摂津の英雄だった「長慶」を知ることができて、非常に有意義で良かった講演でした。

 

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