昨日の午前中に、天満橋で用事があったので、それを済ましてから「淀城」(京都府伏見区)と「勝龍寺城」(京都府長岡京市)に行こうと数日前から計画を立てていました。

 

訪問する時は必ず、ネットや持ち本で「縄張図」を探してそれがあればコピーし、見所の投稿記事を確認してから、大体のタイムスケジュールを立てて臨むようにしています。

 

昨日は、昼食に「マクド」の「チキチ」を食べて(年齢の割には、マクドが大好きオジサンです)、京阪電車の特急と準急に乗り継いで「淀駅」まで行きました。

 

「淀城」への訪問は、大昔に2度ほど来城していますが、当時は「本丸」跡及びその中にある「天守台」は「淀駅」の真後ろでしたので、写真を撮ると駅舎が写っていましたが、現在「京阪電車」は高架上を走り、駅舎は少し北寄りに移動されています。

 

天守台と京阪電車の高架線

以前は、天守台の奥に京阪電車の淀駅が見えた

 

「淀城」と言えば、「豊臣秀吉」の側室「淀君」(お茶々)が居城したお城と勘違いされることが多いですが、駅に近い「淀城」は、1625年に二代将軍「徳川秀忠」の命を受けた「松平(久松)定綱」が完成させた、れっきとした「譜代大名」のお城で、江戸時代の間は「京都」と「大坂」間にあって、両都市への睨みをきかす大きな役割を担っていました。

 

特に「淀城」において注目したいのは、「秀忠」の命が、単なる「淀城」の築城ではなく、その当時使用していた「伏見城」を廃城させて「淀城」にその役割をもたせる為に「伏見城」の天守を「淀城」へ移す段取りが進められていたので、「淀城」の「天守台」はそのサイズで積まれました。

天守台下の曲輪の北面石垣

天守台下の曲輪石垣前に並ぶ各碑(左から、淀城城址碑、淀小橋旧跡碑、唐人雁木旧跡碑)

天守台(上側)と天守台下の曲輪石垣

天守台(西側から、穴蔵への入口が見える)

 

しかし、「二条城」へ「後水尾天皇」が行幸することになり、それに備えた「二条城」の増築が進められたことで、「天皇」行幸を迎えるべく立派な「天守」建築が急がれたことから、「伏見城」の「天守」を急遽「淀城」から「二条城」に移す予定変更が実行され、その玉突きで「二条城」にある「天守」が「淀城」へ移されたという経緯がありました。

 

城主(藩主)は、「松平(久松)家」から「永井家」が1633年に10万石で入城したことで城下町が拡張整備されました。その後は、「石川家」と「松平(戸田)家」と「松平(大給)家」が各6万石で入れ替わり、そして1723年に「稲葉家」が10万2千石で入城してからは、城主が固定して幕末まで統治します。

 

幕末においても注目すべき事件がこの「淀城」で発生しました。それは、戊辰戦争の時に、当時城主(藩主)だった12代「稲葉正邦」は老中として江戸城に居ましたが、1868年の「鳥羽・伏見の戦い」で、旧幕府軍が敗走してこの「淀城」に辿り着き態勢を立て直そうとして入城しようとしましたが、「淀城」在住の家臣達は、城主(藩主)であった「正邦」の意に反して城内に入れず、しかも「新政府軍」に助成したことで、旧幕府軍が窮地に追い込まれる結果を招きました。

 

上記のように、様々なエピソードを持つ「淀城」は、「本丸」と「二の丸」を中心に「内堀」に囲われ、その周囲の北東には「三の丸」を、西側には「西の丸」を置きました。そして北側を東西に流れる「桂川(淀川)」から水を引いた「外堀」が「三の丸」「西の丸」等の周囲を取り囲みました。

 

稲葉家時代の縄張図(城内掲出)

 

「本丸」の南東隅には、前述したように、当初「伏見城」の天守を建てるべく大きな「天守台」を築きましたが、色々な経緯の中でひと廻り小ぶりの「二条城」天守が移されました。

 

「天守」は、五重五階地下には穴蔵を設けて、地下入口から穴蔵を通って登れるようになっていました。天守の形式は、白漆喰総塗籠で入母屋造り、軒唐破風や千鳥破風、入母屋破風等多種の破風で飾られていたようです。しかし、1756年の落雷による焼失後は再築はされませんでした。

 

天守台穴蔵への入口

 

そして「天守台」の周囲には余地ができたので、四隅には二重の「小櫓」を置き、それを廊下形式の土塀で連結させていたそうです。「山城国淀天守之図」には、その姿が絵図で残されていますが、非常に珍しい姿の天守台でありました。

 

現在の「天守台」の石垣は、よく残っています。西側石垣の間の切り込まれた入口から、穴蔵内の階段で「天守台」上に上がれます。しかし、「穴蔵」は、夏草によって覆いつくされていて底部分にある礎石を見ることができませんでした。周囲の石は、花崗岩ですが、積み直しか補修されたのか新しい石のようでした。

 

天守台の地下穴蔵からの階段

天守台の上から穴蔵を見るが夏草で覆われていました(南方向)

天守台の上から穴蔵を見るが夏草で覆われていました(北方向)

天守台の南西隅(この辺りに小櫓が築かれていた)

 

「天守台」の上には、大きな黒い色の石があちらこちらに夏草の中に転がっていましたが、それが何用に使用されたものかは判りませんでした。

天守台に横たわる石群

 

「天守台」から見下ろすと「内堀」が水を湛えています。「本丸」跡の南面側から西面側にかけて「水堀」が残されています。「内堀」沿いの「本丸」南面は石垣が積まれていて、その「本丸」内側は土塁が続いています。また、「天守台」の一段低い北側と西側には曲輪が残されていて、「井戸櫓」の中にあったと思われる「井戸」跡も見ることができます。

 

本丸跡南面の内堀

「本丸」跡南面の石垣

天守台の北西隅石垣と天守台下の北側の曲輪跡

天守台下の北側の曲輪跡に残る井戸跡(井戸櫓が建っていた)

天守台下の西側の曲輪跡

 

そこからは「本丸」跡を俯瞰することができ、北東方向には、最後の藩主家である「稲葉家」の藩祖であり、「春日局」の夫であった「稲葉正成」を祀る「稲葉神社」や「與杼(よど)神社」の敷地になっています。

 

稲葉神社

 

また、全体的には広々した「本丸」跡は公園となっていますが、南西隅、北西隅には櫓台の石垣が残ります。特に、北西隅櫓台は「丹波櫓」と呼ばれた三層三階の櫓が建っていたところで、現在はその上に「明治天皇駐在の碑」が立ちます。

 

本丸跡全景

「本丸」跡の南西隅櫓台

「本丸」跡の北西隅にある「丹波櫓台」

「丹波櫓」台上に立つ「明治天皇駐在の碑」

 

城内には、この「丹波櫓」含めて三重櫓が4基、二重櫓が5基、平櫓と多門櫓が25基、櫓門が4棟、冠木門16棟、他にも水門や舟入門が建ち並んでいたようです。譜代大名のお城としては、非常に立派な造りでありますが、10万石の格に相応しいお城であることと、大坂と京都の間という非常に重要拠点であった地への築城であったことからだと思います。

 

「丹波櫓」跡の西側まで「内堀」が残り、「二の丸」跡と「西の丸」跡との間には、「淀の水車」として当時内外にも有名だった2つの水車の一つが置かれていたとの記載がありました。

 

「丹波櫓」台から見下ろす「本丸」跡西側の堀

「本丸」跡西面の石垣と西側の「内堀」

この辺りに「淀の水車」の一つがあった

 

京阪電車「淀駅」北側には、「水車」のレプリカと解説板がありましたが、「淀の水車は琉球・朝鮮・オランダまで知れわたっていたこと、元々は灌漑用だったが、二の丸居間の庭園用と花畑茶庭の水鉢用になったこと」だそうです。

 

京阪電車「淀駅」北側に復元された「水車」のレプリカ

 

「本丸」の北側に位置する「二の丸」には、城主の居所と藩政を行う建物が建っていた所で、大書院や広間や居間書院や台所があったそうです。現在の「二の丸」跡は住宅・マンション街で、遺構と思われるものは一切見つけることができませんでした。

 

二の丸跡

 

その他の曲輪の現状ですが、高架化で移動した京阪電車「淀駅」北側のバスターミナルの辺りが「三の丸」跡ではないかと思います。

 

三の丸跡界隈

 

また、「天守台」の南東方向で高架下を潜った所に、5~6段の石垣上の敷地には、庭園跡のような木々や灯籠が置かれたエリアがあり、どこからの寮となっている場所が目に入りました。位置的にはひよっとして「東曲輪」の跡ではないかと一応写真に納めましたが、どうでしょうか・・・  ネットで調べても特に何もヒットしませんでした。

 

東曲輪跡か?

東曲輪跡か?

 

「淀城二の丸跡」を通り抜け北に進むと「納所(のうそ)」交差点があり、旧街道のような道を少し行くと左手に「唐人雁木跡」碑が立ちます。、京都と大坂を結ぶ重要な津(淀津)があった場所で、海外からの船着き場でもあって船荷を降ろす雁木が並んでいた所です。

 

唐人雁木旧址碑

 

また、納所(のうそ)という地名の由来は、皇室に納める穀物などの重要な倉庫があったことからの命名されたそうです。

更に少し北上した右手の細い道を入った場所に「妙教寺」とい寺院があります。そこが、まさに「淀君」が居住していた「淀古城」があった一角だそうです。

 

淀古城の一角にある「妙教寺」

 

中には、史跡「淀古城址、戊辰の役砲撃地跡」碑が立ちます。本堂内には、「戊辰の役」時の砲撃によって通貫して穴ができた柱があったそうでしたが、丁度お経をあげている最中でしたので、見るのを断念しました。

 

妙教寺本堂

 

「淀古城」の碑はあるものの、お城であった面影は全くありませんでした。

 

史跡「淀古城址、戊辰の役砲撃地跡」碑

奥に妙教寺が見えるこの界隈が「淀古城」

 

約1時間で「淀城」とその周辺を足早に見学して、「淀駅」前から出ているバスで「勝龍寺城」へ向かいます。

「勝龍寺城」は次の「ブログ」の「お城紀行」で記載します。

 

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