一昨日のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、「明智十兵衛」が「斎藤道三」の命を受けて鉄砲の仕組みを探るべく「京」へ潜入した先で、将軍「足利義輝」の奉公衆「三淵藤英」との出会いから「松永久秀」と出会うシーンとなり、「久秀」とのやりとりが面白い五話でありました。

 

その「松永久秀」が後ほど築城した「多聞(山)城」(奈良県奈良市法華町)は、当時の宣教師から絶賛を浴び、また色々とエピソードの多いお城ですので、早速行ってみたくなって、一昨日の夜は遅くまで「多聞城」の下調べとアクセスの時刻表調べをしました。

 

若草中学校事務所前に掲出されていた資料内の「多聞山城絵図」

 

折角奈良まで行くのならそこだけでは勿体ないと、随分前に行った「柳本陣屋」と「芝村陣屋」で、丁度「明智光秀」宿敵となった「織田信長」の子孫が統治居住した両「陣屋」も、お城巡りコースに組み込んだプラン作りをしました。

 

「松永久秀」については、「信貴山城」で記載しましたが、もう一度記述しますと、”戦国時代の三悪人”とか、”存命中には三大悪事”を働いたとか、極めつけは織田信長に攻められた際には、名器である「平蜘蛛茶釜」を信長に渡せば助命すると言われたのに、その茶釜とともに「信貴山城」もろとも燃やして果てたという狂気的な戦国大名であったと言われています。

 

大河ドラマでは、「吉田鋼次郎」氏演じる「久秀」ですが、早くも「らしさ」の片鱗を演じていて、今後の進展が楽しみです。

 

一方、お城造りでは、色々なアイデアを駆使して、近世城郭の礎をつくった戦国大名でもあったようです。

 

近世城郭では、必ずどこかの箇所に採り入れられている「多聞櫓」、これは石垣上に土塀を建てる替りに、中を廊下或いは倉庫にした長い長屋風建物を建てて外部からの防御を堅固にする櫓を「多聞城」で開発したといわれています。その為、「多聞櫓」と言われています。

 

前述した宣教師の祖国に出した手紙には、非常に賛美された「多聞城」の記述や、 1577年に「織田信長」によって廃城にされた際の興福寺の僧侶が記述した日記には「四階ヤクラ」を解体したとの記録もあることから、「天守」に近い四階櫓を設けていた近世の城郭のハシリだったのではないかと思います。

 

 若草中学校事務所壁の説明書き内の「宣教師が見た多聞山城」

 

という前置きが長くなりましたが、一昨日(2/17)、JR「大阪駅」から「環状線」で「鶴橋駅」経由「近鉄奈良線」快速急行に乗り終点「近鉄奈良駅」まで行きました。そこから「奈良バス」で3停留所の「法蓮仲町」で下車、そこから10分程の距離です。

 

途中「佐保川」を渡った所に、「聖武天皇陵」とその「光明皇后陵」がこんもりと並んでいるのに驚きました。「聖武天皇陵」がこんな所に横たわっているのを全く知りませんでした。

 

聖武天皇陵

 

「多聞城」は、この両陵を取り込んだ様な形でその東側横の丘陵地に繋がっています。

 

「多聞櫓」跡は、現在は「奈良市立若草中学校」の敷地になっていて、お城の「大手」に当たる場所に校門が置かれていて、校舎へは「大手」跡から直線に上る階段上にあります。

 

多聞城跡碑

若草中学校校舎前から見下ろす「大手」付近(中学校の正門)

 

「大手」跡の両脇は、向かって左側が「佐保山東陵」と言われる丘、右側が「切岸」になったような崖が迫って取り込むような形になっていました。

「佐保山東陵」(正門左)

「切岸」跡(正門右)

 

中学校の事務室で資料をいただけるとネットで見ましたので、正門中のインターホンで見学許可を求めて校舎玄関入口脇にある事務所でお願いしました。入館許可証をいただけましたが、資料は事務所の窓ガラスに貼ったモノと壁に掲出している縄張り図や説明書きしかないとのことでしたので、写真に納めました。

 

若草中学校事務所壁に掲出の説明書き

 

手持ちの縄張り図を見ながら、まずは校舎西側の一段高い敷地から見ました。校舎のある所と一段高い所も「主郭」のようです。西側沿いには、「土塁」の跡が繋がっていて、その下は絶壁となり「堀」だったと思われます。

 

西側の「土塁」

西側の「土塁」

「土塁」下の「堀」跡

 

一段高い敷地の南側は柵で仕切られていて入れないですが、持参の縄張り図ではそこが「佐保山東陵」という場所かなと納得し、覗いてみると奥の方に盛土が見られました。多分それは、西側の櫓台だったのではないかとワクワク感が募りました。

 

「佐保山東陵」

 

「佐保山東陵」との柵奥に盛土が(西櫓台か?)

 

 続いて、校舎の南側を抜けて先生方の駐車場前辺りが、南東隅にあったという四階建ての櫓跡かなーと思いましたが特に遺構らしきものはありませんでしたが、後ほど下から見上げた時には土の櫓台のようなものが見られました。

 

「堀切」下から見上げる先が「四階櫓」跡付近

 

駐車場前を抜けると「若草大橋」という橋が非常に深い谷に架かりその向こうには中学校のグランドが見えます。この谷こそが、東側の「堀切」で、かなりの規模があります。橋を渡りグランドとなっている「善称寺(ぜんしょうじ)山」跡を見てから「堀切」の方へ階段で降りました。

 

「善称寺(ぜんしょうじ)山」跡に造られたグランド

東側の「堀切」

「堀切」(右が「主郭」、左が「善称寺(ぜんしょうじ)山」)

「堀切」(若草大橋下で右が「主郭」、左が「善称寺(ぜんしょうじ)山」)

 

「主郭」の北西隅にも「櫓台」があるとのことでしたので下から覗き見しました。それらしきモノを見つけました。「多聞城」には、3つの「櫓」があったそうで、事務所前に掲出されていた復元絵図でも三つの「櫓」絵が描かれていました。

 

「北西櫓台」跡?

 

「堀切」を南側に向かって下っていくと、右手に「主郭」の側面を見上げることができ、「四階櫓」台ではないかと思われるモノもここから確認しました。また、左手一面に、崖を削り落としたような「切岸」跡も一面に見られました。

 

「堀切」(左が「主郭」、右が「善称寺(ぜんしょうじ)山」)

主郭下の「切岸」

 

東側半周して元の「大手」前に戻ると、先ほど気が付かなかったのですが赤い布が所々付いた「石塔」や「石仏」「墓石の基部」が集められている場所がありました。

 「石塔」「石仏」「墓石の基部」

 「石塔」「石仏」「墓石の基部」(向こうに東大寺大仏殿)

 

これは、1577年に破城されて、「大和郡山城」を築城する為に部材や石材を運ばれたそうですが、運ばれなかった墓石類がここに纏められたとの伝承があるそうです。この場所からは「東大寺大仏殿」が良く見えました。

 

お借りした「入館証」を返すために事務所に訪れ、帰り際に「大手」から登る階段上か奈良市街地と「興福寺五重塔」が目の前に見えました。

 

階段から見える奈良市街地と「興福寺五重塔」

 

帰りは行のバスとは違う路線で「JR奈良駅」に向かう為に、「佐保川」沿いにバス道の「京街道」まで数分の散策をしました。「京街道」から見る「多聞城」は長い丘陵というか少し低い山が連なっているように見えました。

 

多聞城跡遠景

 

バス停「今在家」から「奈良バス」でJR「奈良駅西口」に到着しました。「JR奈良駅」には、殆ど来ることがなかったものの寺院風の駅舎が記憶に残っていましたが、新駅舎に替わり旧駅舎は目に入りませんでした。

 

しかし東口に行くと、広々としたバスターミナルの北側に旧駅舎が移築されて「奈良観光案内所」として生まれ変わっているではないですか。

 

JR奈良駅の新舎、旧舎(現 観光案内所)

旧舎(現 観光案内所)

 

そういえば、記憶を蘇らすと、新駅舎新築に伴い、「旧駅舎」のメイン部分を曳家工法で横に移動させたという記事を思い出しました。

 

中は、正面に観光案内受付があり、右手には「スタバ」が入りコーヒーのいい香りがしていますし、天井や壁面は当時のままでしょうか彫刻なども見られました。また驚いたのは、8ケ国語(※)の奈良観光パンフレットが用意されていたことです。これこそが、凄い“おもてなし”だと思いました。

 (※)日本語、英語、中国語(2種)、韓国語、フランス語、ドイツ語、スペイン語

 

 旧舎(現 観光案内所)内

8ケ国語の奈良観光パンフレット

 

さて、昼食を新駅舎内でとり、次は「柳本陣屋」へ向かいます。

次回のブログで紹介します。

 

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