本日の「”現存三重櫓”を色々な方向から顔・姿を見る」は、「高松城(香川県高松市)に現存している三重櫓2基の内、まずは重文の「月見櫓(着見櫓)」(前編)を、次回のブログで同じく重文の「艮櫓」(後編)をお届けします。今回、写真や情報量が豊富にありますので前編と後編に分けてご紹介します。

 

第六弾「”現存三重櫓”を色々な方向から顔・姿を見る」の総編

https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12598737807.html

第六弾「弘前城 丑寅櫓・辰巳櫓・未申櫓」

https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12598898257.html

第六弾「江戸城富士見櫓」

https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12599126634.html

第六弾「名古屋城清洲櫓(西北隅櫓)」

https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12599344166.html

第六弾「彦根城西の丸三重櫓」

https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12600774185.html

第六弾「明石城巽櫓・坤櫓」

https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12601029516.html

第六弾「福山城伏見櫓」

 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12601276152.html

 

「高松城」は、「水戸藩」の支藩的な高松藩「松平家」のお城で、「徳川家康」の十一男の「徳川頼房」の長男「松平頼重」が1640年に入城して大改修されました。因みに、「頼重」の次男は、「水戸藩主」になった「水戸黄門」こと「徳川光圀」です。その後、城主(藩主)は、「光圀」系に替わりますが、江戸時代通じて徳川家の「家門」として格式の高いお城でした。

 

「天守」は現在無く天守台だけですが、幕末の古写真が残り復元の検討もされていて、特異な姿の「南蛮造り」の「天守」復活に期待を膨らませています。

 

さて、現存三重櫓「月見櫓(着見櫓)」は、お城北側の海岸沿いの「新曲輪」北西隅に建ち、往時は海から到来の船舶などを監視する役割を担っていたそうで、櫓名(着見)からも想像ができます。

 

そして、「月見櫓(着見櫓)」下には、これも現存で重文の「水手御門」が「続櫓」で繋がり、海から当城への出入口として使用されました。

 

ただ、「月見」との命名もあることから、当櫓からの月見鑑賞もされたのではないでしょうか。

 

「月見櫓(着見櫓)」は、非常に格式を誇った櫓で、他のお城では「天守」に匹敵するほどの色々な装飾が施されています。

 

三層三階の層塔型、「軒唐破風」や「切妻破風」を多用したり、壁面窓の上下には「内法長押(うちのりなげし)」「腰長押」を二引両(ふたつひきりょう)という徳川家の幕紋をイメージして装飾されています。

 

また海風に絶えず晒されることから、一階から三階まで通し柱4本で支える内部構造によって強固に建築されています。

 

現在の位置は、海を埋め立てて道路が出来ていますので少し海から後退した様に見えますが、満潮時には、道路下の排水溝から流れ込んでくる海水が「水の手門」前まで満たされ、往時の姿が再現されるのを見ることができます。(下記写真でご覧ください)

 

・三層三階、層塔型、白漆喰、壁面上下に「内法長押(うちのりなげし)」「腰長押」の日本に着色

・軒唐破風と切妻破風

・4本の通し柱を持ち内部構造が強固

 

良く見るアングル(左から月見櫓、続櫓、水手御門、渡櫓)西南側から

西面(一層目に切妻破風、二層目に軒唐破風)手前は、往時は海上だった

北西隅(壁面上下に長押が引かれている)

満潮時に「月見櫓」下や「水手御門」前に海水が入り込んでいる

北西側(海側)から

北面一層目は軒唐破風が付き壁下は石落とし)海側から

北東側から(海側から、東面の一重目は切妻破風下は出入口、二重目軒唐破風が付く)

新曲輪内から南面(手前に続櫓、水手御門が見える)

新曲輪内から南東隅を見上げる

東面の軒唐破風と切妻破風

 

次回は、後編「高松城艮櫓」をお届けします。

 

 

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