私がかつて訪城した約25城の「模擬天守」を順次お届けしています。
前回のブログでも記載しましたが、今や市町村のシンボルで市民権を得た状態で聳えている等という理由で、「模擬天守」を採りあげました。そして「模擬天守」について以下の分類があることも簡単に纏めました。
①お城に「天守」があったものの、現在城域外のかなり違う場所に「天守」が建てられている場合
②お城に「天守」があったことが絵図で描かれているが、その絵図とは全く違った形状の「天守」が建てられている場合
③お城に「天守」があったものの、「天守」の形が絵図や発掘物等何もなく判らない場合
④確かにその場所にお城が有ったと思われるものの、「天守」があったという史実が無い或いは確認されていない場合
⑤お城が有ったという史実が全く無い或いは確認されていない場合(今回のシリーズではこれは割愛します)
江戸時代に「藩庁」だった「お城」、本日お届けするのは、「郡上八幡城」(岐阜県郡上市)の模擬天守です。随分前に訪城しましたので、写真はアナログで少し見にくいですが、お許しください。
四重五階の模擬天守(大垣城天守を参考、西面)
「郡上八幡城」は、16世紀中盤以降に「遠藤家」によって砦が築かれますが、その後「豊臣秀吉」の不興を買って城を追い出され、「稲葉家」が入城します。
関ヶ原の戦い後、再度「遠藤家」のお城となりますが、幼児の城主が死去することに伴い、幕府の管理を経て「井上家」「金森家」が城主となり、1758年に「青山家」4万8千石が入城した後は幕末・維新までこの地を統治します。
良く見るアングル(南側より、手前は模擬南西隅櫓)
南西側より(右に南西隅櫓)
南西側より(奥に隅櫓)
当城の天守は、「関ヶ原の戦い」の前哨戦を描いた「濃州郡上合戦図」には三層天守が書かれていますが、史実では「天守」の存在は確認されていないようです。
現在の「天守」は、複合式層塔型で四層五階の模擬天守ですが、1933年(昭和8年)に、当時現存していた「大垣城」を参考に木造で建てられ、日本で一番古い木造「模擬天守」となっています。東側に、模擬付櫓を伴います。
南面(右には付櫓)
「模擬天守」と言えども木造で築城されていますので、内部の雰囲気は現存天守に近い感じがします。「模擬天守」そのものは、市の指定有形文化財に指定され、日本城郭協会の「続日本百名城」にも選ばれています。
木造造りの内部
このように、八幡山頂上に聳える「模擬天守」は、大切に保存されていて87年間も市民のシンボルとして溶け込んでいます。また、作家「司馬遼太郎」の「街道をゆく」では、「日本で最も美しい山城」と言わしめています。
次回のブログでは、「富山城」(富山県富山市)の模擬天守をお届けします。
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