私がかつて訪城した約25城の「模擬天守」を順次お届けしています。

 

前回のブログでも記載しましたが、今や市町村のシンボルで市民権を得た状態で聳えている等という理由で、「模擬天守」を採りあげました。そして「模擬天守」について以下の分類があることも簡単に纏めました。

 

お城に「天守」があったものの、現在城域外のかなり違う場所に「天守」が建てられている場合

お城に「天守」があったことが絵図で描かれているが、その絵図とは全く違った形状の「天守」が建てられている場合

お城に「天守」があったものの、「天守」の形が絵図や発掘物等何もなく判らない場合

確かにその場所にお城が有ったと思われるものの、「天守」があったという史実が無い或いは確認されていない場合

お城が有ったという史実が全く無い或いは確認されていない場合(今回のシリーズではこれは割愛します)

 

江戸時代に「藩庁」だった「お城」で、本日お届けするのは、「越前勝山」(福井県勝山市)の模擬天守です。

 

地元の財界人「多田清」氏が私財投下して建てられた模擬天守、模擬渡櫓、模擬小天守(北東側から)

 

「勝山城」は、「織田信長」の家臣「柴田勝家」の一族が築城し、「勝家」死後は「丹羽長秀」が領する所となります。

 

そして江戸時代になり、「結城秀康」の支配下におかれますが、「松平直基」が入城した時に、福井藩から独立します。その後一時天領となりますが、「小笠原家」が2万2千石でこの地に入り、幕末・維新まで続きます。

 

「勝山城」には、「天守台」が築かれていたようですが、「天守」は上げられなかったようです。その「天守台」は昭和40年頃迄残っていたようですが、市民会館建設で無くなってしまいました。

 

本来の「越前勝山城」天守台跡(現在は、市民会館脇に碑がある)

 

その「勝山城」跡から南東に直線距離で約2.7㎞の所に、1992年築の立派な「勝山城」の模擬天守が建っています。

 

外観は「姫路城」を意識した五重五階望楼型の「天守」に三重三階の「小天守」風建築が「渡り櫓」によって連結されています。

 

「勝山城博物館」となっている模擬天守、模擬小天守(東側から)

「勝山城博物館」(北側から)

南側から見上げる

「勝山城博物館」館内一階

 

天守台の石垣には、勝山市内に多数の恐竜の化石が発掘されていることに因み九匹の龍「九頭流」の彫刻が刻まれています。その上に建つ「天守」は現在日本一の高さを誇る58mとなっていて、周囲遠方からでも非常に良く見えます。

 

北側から、天守台には「九頭龍」の彫刻が刻まれている

九頭竜川に架かる「勝山橋」からの遠望

 

これは、史実とは全く別物の「模擬天守」で、勝山出身で相互タクシーの創設者「多田清」氏という財界人が私財を投じて建築し1992年に竣工したもので、現在は「勝山城博物館」となっています。

 

私財を投じた「多田清」氏は、模擬「勝山城」だけでなく、ここから北西に向かって1.2㎞の場所に、これまた日本一の高さを誇る「越前大仏」が立てる為に「清大寺」にも多くの資材が投じられたようです。

 

清大寺の大仏殿(この中に越前大仏、高さ52mで重層寄棟のRC造り)

越前大仏(身の丈17mで、奈良の大仏より高い)

 

上記「模擬天守」の種別は①に近い分類になると思いますが、「天守」はなく「天守台」だけで、本来の場所ではなく、かなり遠い場所での再築となっています。

 

次回ブログは、「今治城」(愛媛県今治市)の模擬天守をお届けします。

 

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