明治維新時に東北諸藩が結成した「奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟」藩のお城紹介をするシリーズです。

 

当同盟は、「薩摩藩」「長州藩」を中心とした明治新政府が、幕末に「京」や「江戸」で受けた取締りの報復もあって、「会津藩」と「庄内藩」を“朝敵”にしました。新政府に“朝敵”の赦免嘆願するべく東北諸藩が一丸となって結成されたのがこの「同盟」でしたが、それを拒否されたことから「同盟」が軍事化していきました。

 

本日は「仙台城(前編)」(宮城県仙台市)をお届けします。

 

大手隅櫓(外観復元)

 

まず最初に、「仙台城」の歴史と城主について触れておきます。

 

「豊臣秀吉」は東北地方には未だ手を付けていなかったので、後北条家に対する「小田原攻め」をきっかけに東北の諸大名にも、「小田原」に出向いて臣従を誓うことを求めました。

 

その中で、最後まで抵抗したのが「伊達政宗」でしたが、最後には死に装束である白装束で「秀吉」の前に現われ臣従を誓ったというエピソードも残ります。

 

しかし、「秀吉」の再三の呼びかけにすぐに応じなかったことから、会津地方を「秀吉」に取られて石数を減らされ、「政宗」の父親の時代から城主であった本拠地「米沢城」から「岩出城」に移り住みます。

 

「秀吉」没後は、「徳川家康」に近づき、娘を「家康」の息子「松平忠輝」に継がせ、「関ケ原の戦い」では東軍に属したことから、戦後は加増され62万石となり「仙台城」を築きます。そして、幕末・維新まで「伊達家」は当城の城主として領地を治めます。

 

更には、「大坂夏の陣」で長男「伊達秀宗」の戦功によって、「宇和島城」を与えられここも幕末・維新まで「伊達家」によって統治されます。

 

維新の「戊辰戦争」(1868年)では、「仙台藩」が「奥羽越列藩同盟」の「盟主」となり、新政府に対して「会津・庄内藩」が“朝敵”であることを赦免嘆願する書状を「総督府」に提出しました。

 

しかしそれが却下されてからは、奥羽全体の命運をかけて新政府軍と全面戦争に突入します。当初は進撃しましたが、「三春藩」の裏切り、「久保田藩」とその同調藩の「同盟」からの離反、更には「同盟」主力の「米沢藩」も投降したことで、「仙台藩」藩主「伊達慶邦」は降伏しました。

 

さて、築城は1601年、関ケ原の戦い後すぐということもあり、後方には豊臣方の「上杉家」が控えていたので、南側の徳川方を防御する役割を担う築城を求められました。

 

縄張り」は、「広瀬川」の河岸段丘面を利用した築城で、最上段には「本丸」を置き、各段丘の高低差を巧く活用して「二の丸」「三の丸」を段状に曲輪を形成しました。

 

仙台城俯瞰絵図

広瀬川沿いの石垣

仙台城本丸遠景(広瀬川から)

 

「本丸」の北側には切込接布積みの堅固な高石垣が築かれ、本丸正門である二階建ての「詰門」とその両脇には三層の「東脇櫓」「西脇櫓」が睨みをきかせました。

 

本丸の俯瞰絵図

本丸北東の切込接布積みの高石垣

本丸北東の切込接布積みの高石垣

本丸「東脇櫓」跡石垣(二層)

「詰の門」跡石垣

「詰の門」跡石垣

「詰の門」石垣と「西脇櫓」跡(三層)石垣

「詰の門」跡石垣(二階建)

 

更に三層の「艮櫓」「巽櫓」と「酉門」脇の二層櫓が築かれ守りを固めていました。現在は、櫓跡の石垣が残るのみです。また、「天守」は建てられなかったけれども「天守台」は「護国神社」の脇にあります。

 

「艮櫓」跡石垣(三層)

「巽櫓」跡(三層)

「護国神社」(本丸内、左奥に「天守台」があるらしい)

 

現在その脇には「本丸会館」「青葉城資料展示館」が建ち、仙台城や仙台藩の歴史が説明されています。

 

「本丸」の敷地には、「千畳敷」と呼ばれた「大広間」「書院」「台所」などの「御殿」が建ち並び、特に断崖絶壁に懸かる「懸造(かけづくり)」は、城下を一望できる「政宗」自慢の建造物であったようです。

 

「伊達政宗銅像」(本丸跡内)

「本丸御殿」跡(左は断崖絶壁)

「懸造」跡(崖上に数寄屋風書院造り建築物が懸っていた)

「本丸」跡から望む仙台市内

「本丸馬場」跡

本丸「埋門」跡

 

「二の丸」は、「政宗」の子女の屋敷が建っていましたが、2代藩主「忠宗」の時に、「若林城」の御殿を移築してきて、藩主の私邸と藩庁として使用されるようになります。

 

現在の「二の丸」の跡地は、東北大学川内キャンパスになっていて大学の建物が建っています。

 

「二の丸御殿」跡(現在 東北大学キャンパス内) 

二の丸「詰の門」跡付近(二の丸の入口)

 

「二の丸」東側には、桃山形式の立派な「大手門」がありましたが、その脇にあった「隅櫓」とともに太平洋戦争の空襲で焼失してしまいました。現在は、「隅櫓」が復元されている他、「城壁の太鼓塀」が一部現存しています。

 

復元「隅櫓」と「太鼓塀」の間は「大手門」跡(戦災で焼却)

復元「大手隅櫓」

現存「太鼓土塀」

現存「太鼓土塀」と復元「大手隅櫓」

 

本日は、ここまでとし、次回ブログ「後編」は「仙台城三の丸」からお届けします。

 

 

 

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