本日は、吹田市山田にある阪大病院に車で行く用事ありましたので、用事を済ました後にそのまま帰宅するのも勿体ないないし、吹田迄来ているならもう少し足をのばして何処かお城巡りでもしようという気になりました。

 

阪大病院から約1時間のドライブで、途中、ゴルフを始めたころには良くプレイをした河川敷ゴルフ場(牧野ゴルフ倶楽部、樟葉パブリック・ゴルフコース)の横を走り、懐かしい思いで一杯でした。今は全くプレイはしませんが、グリーン色の芝生が秋の微風に吹かれて気持ちよさそうでした。

 

以前から行ってみたいと思っていた「樟葉(くずは)台場」は、幕末に幕府軍と新政府軍(薩長連合軍)との立場が逆転する転換点の一つにもなった所です。

 

京都南で勃発した「鳥羽・伏見の戦い」では、幕府軍が劣勢な戦いとなったので、一旦、陣営を立て直すべく、幕府方の陣地の一つでもあった稲葉家藩主の「淀城」(京都市伏見区)に退却をしようとしましたが、「淀城」は閉門されていて逃れてきた幕府軍勢を城内に入れませんでした。

 

仕方なく、城内に入れない幕府軍勢は、更に南下して、「橋本陣屋」(京都府八幡市)や近くにある淀川沿いに設け酒井家「小浜藩」が守備していた「樟葉(橋本)台場」(大阪府枚方市)に逃げ込みます。

 

「戊辰役橋本砲台跡」碑と全景(北東方向=京都方向) 

堀と稜堡(南虎口)

番所跡

 

しかしながら、淀川を挟んだ北側淀川沿いに築かれた「高浜台場」(大阪府三島郡島本町)を守備していた藤堂家の「津藩」は、幕府側から新政府軍に寝返り、「樟葉(橋本)台場」に対して砲撃を開始してきました。

 

「高浜砲台跡」碑

淀川の堤防下に碑がある

淀川を挟んで「樟葉(橋本)台場」があった(「高浜台場」から丁度ど真ん中の辺り)

 

更に、「鳥羽・伏見」から逃げる幕府軍を追跡してきた「新政府軍」に対しては、稜堡式の「樟葉(橋本)台場」にある三基の砲台から砲撃による対抗ができませんでした。

 

というのも、当台場の砲台は、元々は川下から遡上してくるかもしれない外国船や薩長船を想定して築かれた台場で、砲台三基は川下にしか向いていなかったからでした。

 

「樟葉砲台の構造」(砲台三基は、この絵図の右下にあります)

 

以上のような状況下で、幕府軍は大坂まで逃げ帰るのがやっとのことでした。

 

このように、「淀城」の稲葉家と「高浜台場」の藤堂家の寝返りによって、旧幕府の立場が非常に弱くなり、大坂城に駐留していた将軍「徳川慶喜」は、「松平容保」「松平定敬」「板倉勝静(かつきよ)」等を引き連れて「大坂城」を逃げ出し、「大阪湾」上に待機していた船で江戸へ逃げ帰り「浜御殿」に上陸したという不名誉な事態に繋がりました。

 

先日来よりブログで投稿してきた『「奥羽越列藩同盟」のお城シリーズ』や『箱館戦争に関わったお城シリーズ』の前哨戦が、概ね上記のような内容であったと思います。

 

このシリーズを更に遡って見ていきたいとの思いもあって、本日は「樟葉(橋本)台場」に急遽を行こうと決心しました。

 

そして、本日は自家用車でもあったので、「樟葉(橋本)台場」繋がりで、「橋本陣屋」、「高浜台場」、「梶原台場」までも足を延ばすことができました。

 

淀川を挟む陣屋、台場(砲台)の位置関係(上が京、下が大坂)、高浜船着所が高浜台場の地点

「梶原台場」(大阪府高槻市、こちらも津藩「藤堂家」が守備していた、遺構も碑なし)

 

「鳥羽・伏見の戦い」前後から、「徳川慶喜」の逃避行までの間に関わったお城についても、もう少し詳細に掲載をしたいと思います。

※「二条城」「伏見奉行所」「淀城」「樟葉(橋本)台場」「橋本陣屋」、「高浜台場」、「梶原台場」「大坂城」「浜御殿」等

 

 

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