先日迄のブログは、「奥羽越列藩同盟」を結成して新政府軍と戦ってきた各藩のお城を見てきました。

 

そして、「会津・長岡戦争」で生き残った旧幕軍と、江戸において「上野戦争」の生き残った幕臣達等が合流して蝦夷地に向かい「箱館戦争」を約1年に亘って繰りひろげましたが、それに関わったお城も見てきました。

 

これらの地域で勃発した旧幕府軍と新政府軍の衝突を、総称して「戊辰戦争」と言われています。

 

以下は、幕末に起こった色々と複雑なでき事の経緯で勃発してきたことで、本格的な「戊辰戦争」の前哨戦だと思います。この前哨戦の中で関わった「お城」について、今回から掲載していきたいと思います。

 

まずは幕末に色々と発生した事項について、下記に簡単に纏めてみました。

 

幕末になると、徳川幕府の力が弱まる中、黒船来航等で開港を求める外国からの圧力に屈した幕府は、朝廷の勅許を得ないまま「日米修好通商条約」(1858年7月)を締結したことで、幕府と朝廷との間に緊張が走ります。

 

そして「日米修好通商条約」の締結による「開国派」と「攘夷派」との対立、13代将軍「家定」の将軍継承問題で「紀州派(慶福→家茂)」と「一橋派(慶喜)」間の対立が深まり、大老「井伊直弼」の方針に反対する者たちを処罰した「安政の大獄」(1858~9年)によって、「攘夷」と「反幕」が沸き起こってきました。

 

そのような中、幕府と朝廷間の融和を図るべく、14代将軍「徳川家茂(いえもち)」と「孝明天皇」の妹「和宮」が結婚(1861年2月)しますが、その後約230年ぶりに「家茂」は上洛を行い「二条城」(京都府中京区)に入城します(1863年3月)。それを契機に、「二の丸御殿」の修築と大火で焼失して再建されていなかった「本丸御殿」の「仮御殿」が建てられました。

 

「二条城」唐門から覗く二の丸御殿の車寄と遠侍(国宝)

 

この間、幕府に攘夷を強く求める天皇を始めとした朝廷に対して、幕府は引き延ばしを行いますが、「長州藩」は、尊王攘夷を叫び朝廷側に近づこうとし、京都の中で過激な行動に出ました。一方、その取り締まりの為に「京都守護職」(上屋敷は、京都府京都市中京区)に就いた(1862年5月)「会津藩」の「松平容保」は「新選組」を使って、彼らの取り締まりを図りした。

 

「京都守護職」の屋敷門(現存)

 

そして、「長州藩」の一部の者が、天皇を拉致して長州へ連れて行こうとする事件が発覚したことから、御所内に駐留していた「長州軍」は、幕府方の「会津藩」と公武合体を理想とする「薩摩藩」から攻められ、「蛤御門の変」(1864年8月)を引き起こした「長州藩」は、京都から追放されて長州へ逃げ帰ります。

 

御所の「蛤御門」

 

幕府は、「朝敵」になった「長州藩」に「征長軍」を送り込む「第一次長州征伐」(1864年8月~1865年1月)を敢行します。ただ、この長州征伐では実質的に交戦は殆ど行われず、「藩主の謝罪」「3家老の切腹」「京から逃れていた七人の公家の追放」「山口城」(山口県山口市)の破却の命を下しただけでした。藩主「毛利敬親」は、「山口城」の一部を破却して「萩城」(山口県萩市)に移りましたが、翌年には再び「山口城」に戻っています(1865年4月)。

 

「山口城」の藩庁門

「萩城」の天守台

 

一方「薩摩藩」は、前述のように、幕府と天皇とが一体となる「公武合体」で外国勢力を排除しようとする方向で活動していましたが、鹿児島での「薩英戦争」(1863年8月)によって、外国勢力にさんざん打ちのめされ、「鹿児島城」(鹿児島県鹿児市)城下は焼野原になるとともに、お城の「奥御殿」にも砲弾が撃ち込まれました。

 

「鹿児島城」欄干橋と水堀(今春に「御楼門」が復元されています)

 

そして「長州藩」も同様に、四国(英仏蘭米)からの砲撃「馬関戦争」(1864年9月)によって、こちらもさんざん痛い目に逢わされました。

 

こうしてこの2つの外国勢力との争いで、現状の幕府の力では到底外国に対して対抗できないということや、徳川家に対する長年の鬱屈した思いもあり、倒幕をして新しい政府を創って国力を上げなければならないという認識で両藩は近づくようになりました。

 

こうして「薩摩藩」と「長州藩」が土佐の「坂本龍馬」の仲介で、二藩が協力して討幕をめざす「薩長同盟」(1866年3月)を結び、京都を中心に過激な倒幕行動を強める一方、幕府方の守護職「松平容保」も、配下の「新選組」に取り締まりを一層強化するように指示しました。

 

「第一次長州征伐」による「長州処分」が下された後、「長州藩」配下の「騎兵隊」が、幕府直轄地である「倉敷代官所(岡山県倉敷市)や京都見廻り役だった蒔田家の「浅尾陣屋」(岡山県総社市)を襲撃(1866年4~5月)したことから、幕府は「第二次長州征伐」を決め、将軍「家茂」は陣頭指揮を執る為に「大坂城」(大阪府大阪市中央区)に再度入城しました。

 

「倉敷代官所」跡碑(現在は、倉敷アイビー・スクエア内)

「浅尾陣屋」跡碑

 

既に「薩長同盟」を締結していた「長州藩」は、「薩摩藩」から大量に西洋式の武器や戦術を採り入れていたことで四か所(石洲口、芸州口、大島口、小倉口、)の戦場で健闘します。(1866年7月~10月)

 

「石洲口の戦い」では、浜田藩領内の益田が戦場となりますが、幕府側の敗戦が濃厚となったことから「浜田城」(島根県浜田市)を自焼して「松江城」へ逃避しました。この前提として、「長州藩」とは隣国であった「津和野城」(島根県鹿足群津和野町)を持つ「津和野藩」は、「長州藩」には同情的で擁護の立場を取っていました。幕府からの出兵も無視して、「長州藩兵」の領内通過を許可しました。

 

「浜田城」の本丸跡

「津和野城」の物見櫓(重文)

 

「芸州口の戦い」では、長年にわたり宗家「毛利家」は疎遠であった「岩国城」(山口県岩国市)の「吉川家」に和解の申し出を行い、「長州軍」の総督として、ゲリラ戦やミニエー銃によって攻撃を加え、旧式の武器しか所持しない幕府軍を敗走させました。

「岩国城」の復興天守

 

「大島口の戦い」では、長州藩領内の周防大島が戦場となり、幕府軍として加勢するはずの3藩からは出兵がなく、「松山藩」だけが参加し奇襲戦で当地を奪いましたが、「高杉晋作」と第二騎兵隊が駆けつけて大島の奪還に成功しました。

 

「小倉口の戦い」では、「長州藩」が「小倉城」(福岡県北九州市小倉北区)を猛攻しますが、「小倉城」を守る「熊本藩」は最強の武器アームストロング砲やミニエー銃を持っていたので「長州藩」は苦戦します。ところが、将軍「家茂」が「大坂城」で急死したことが伝わると、幕府軍は「小倉城」を自焼して逃げました。

 

「小倉城」の復興天守と小天守

 

以上のように各所で幕府軍は敗戦となり、前述のように将軍「家茂」が逝去した(1866年8月)ことで、長州征伐から撤退を行うとともに、幕府の威信も大きく低下しました。

 

14代「家茂」の後見役だった「徳川慶喜」は、「家茂」が「大坂城」(大阪府大阪市中央区)で逝去したので、その後15代将軍に推挙されましたが、政権を朝廷に返すという「大政奉還」を「二条城」(京都府京都市中京区)の大広間で宣言しました。(1867年11月)

 

「大坂城」復興天守

 

「慶喜」が政権を朝廷に返却したことで幕府がなくなり、討幕を免れた「慶喜」は、新政権の中心となる「朝廷」だけでは政治はできないと高を括って(たかをくくって)いましたが、「岩倉具視」が画策した「王政復古の大号令」で天皇中心の政治を行うことが宣言されました。

 

しかし「慶喜」も、自分は「将軍」ではなくなったが「上様」と宣言して幕府機構を動かし、引き続き全国支配をしようとの目論見があったことや、在日する6カ国と外交権を認めさせる等の動きを見せました。加えて、薩長の強硬的なやり方に諸藩も動揺や不満が出たことで、旧幕府が力を結集させて盛り返すのではないかと、薩長は危機感を持つようになりました。

 

「薩長」は、「旧幕府」側を叩くには、「新政府」に対して戦いを蜂起させ、それを成敗するという構図を描き、戦いを仕掛けました。それが、「鳥羽・伏見の戦い」(1868年1月)に繋がります。

 

「鳥羽・伏見の戦い」では、「伏見奉行所」(京都府京都市伏見区)の近辺で行われた戦いで、鳥羽街道を封鎖していた「薩摩軍」5千人が、「京」に入ろうとする「旧幕府軍」1万5千人を阻止する為に睨み合いをしていました。「薩摩軍」の拠点は「伏見奉行所」で、「薩摩軍」は「御香宮神社」を拠点としました。

 

「伏見奉行所」跡碑

 

その内に、「薩摩軍」から大砲と銃撃を「旧幕府軍」に打ち込み戦いの火ぶたが切られます。「薩摩軍」兵士の数は、旧幕府軍は新政府軍の3倍にも拘わらず、近代兵器を所持する新政府軍は旧幕軍を圧倒します。

 

「旧幕府軍が」劣勢な戦いとなったことから、一旦、陣営を立て直すべく、幕府方の陣地の一つでもあった稲葉家藩主の「淀城」(京都市伏見区)に退却をしようとしましたが、「淀城」は閉門されていて逃れてきた旧幕軍勢を城内に入れませんでした。

 

「淀城」天守台

 

仕方なく、城内に入れない旧幕軍勢は、更に南下して、「橋本陣屋」(京都府八幡市)や近くにある淀川沿いに設け酒井家「小浜藩」が守備していた「樟葉(橋本)台場」(大阪府枚方市)に逃げ込みます。

 

橋本陣屋」(現在は、公民館)

樟葉(橋本)台場

 

「鳥羽・伏見」から逃げる幕府軍を追跡してきた「新政府軍」に対しては、稜堡式の「樟葉(橋本)台場」にある三基の砲台からは砲撃することができませんでした。

 

このように、「淀城」の稲葉家と「高浜台場」の藤堂家の寝返りによって、旧幕府の立場が非常に弱くなり、大坂城に駐留していた将軍「徳川慶喜」は、「松平容保」「松平定敬」「板倉勝静(かつきよ)」等を引き連れて「大坂城」を逃げ出し、「大阪湾」上に待機させていた軍艦船で江戸へ逃げ帰り、当時幕府の海軍所となっていた「浜御殿」(東京都中央区浜離宮庭園)に上陸した(1868年1月)という不名誉な事態に繋がりました。

 

「浜御殿」の櫓門台跡

 

次回ブログから、十四代将軍「徳川家茂」が、1回目の上洛を果たし「二条城」に入った頃から、十五代将軍「徳川慶喜」が江戸へ逃げ帰るまでの間に、歴史に現れた「お城」を取り上げて紹介していきたいと思います。

 

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