敦賀方面「日帰りお城巡り」の三番目は「敦賀(鞠山)陣屋」(福井県敦賀市)です。

 

前回のブログの最後に記載しましたように、この場所のナビ設定で目的地に「敦賀陣屋又は鞠山(鞠山)陣屋」と打ち込んでも反応なし、勿論電話番号も判らないので検索もできず、仕方なく「鞠山」とつく建物に目的地を設定しました。

 

後から気が付いたのですが、事前に「敦賀観光協会」から頂いた道路マップでは「敦賀藩鞠山(まるやま)陣屋跡」が「鞠山神社」横にスポットされていましたので、「鞠山神社」で目的地設定したら良かったのかも。

 

何とか辿り着いたのは、「敦賀新港」でフェリー乗り場でした。そして、手地図で道路を見ながら車を進め、またスマホのナビでは「敦賀陣屋」表示があるのでそれも併用しながらやっと着いたのが「鞠山神社」でした。

 

この「鞠山神社」こそが、ナビでいう「敦賀(鞠山)陣屋」でした。

 

「敦賀(鞠山)陣屋」跡内に再建された「鞠山神社」

 

当神社の前の説明書きによりますと、1682年に「小浜藩」二代藩主「酒井忠直」から次男の「忠稠(ただしげ)」が1万石を分与されて当地に陣屋を築きました。

 

「鞠山神社」の説明書き

 

小藩ながらも、江戸幕府では、「寺社奉行」や「若年寄」等の重職に着く藩主もいましたが、明治3年に宗藩の「小浜藩」と合併をしたようです。

 

「陣屋」の規模は、「飯野陣屋」(千葉県富津市)、「徳山陣屋」(山口県周南市)とともに「日本三大陣屋」と言われる程広かったようですが、現在は、陣屋内にあった「稲荷神社」に、藩祖「忠稠(ただしげ)」を合祀して陣屋跡地内に創建した「敦賀(鞠山)陣屋」しか見るべきものはありませんでした。

 

事前にネットで調べていた跡地は、「リコー」の保養所跡地とのことで広い敷地のみの写真が掲載されていましたが、その場所を探すべく車でウロウロ走り回りもしましたが結局その場所は判りませんでした。

 

釣り場となっている海岸から見た光景で左の小山の奥側が「敦賀(鞠山)陣屋」があった場所

 

幕末には、海岸沿いに砲台二基を設けたとの記述もありますので、下記写真のずっと奥にあったのかもしれません。

 

釣り場となっている海岸から見た右の崖奥側が「敦賀(鞠山)陣屋」があった場所

 

しかし今思うと、「鞠山神社」周辺が「敦賀(鞠山)陣屋」跡の敷地だったようで、殆どが民家と畑しか見えませんでしたが、もう少し周辺写真を撮っておくべきだったな~と思いました。それにしても、「日本三大陣屋」の面影は全くなく、折角足を運び時間も費やしたにも拘わらず非常に残念な思いでした。

 

「敦賀(鞠山)陣屋」の南側後方には、巨大「北陸電力敦賀火力発電所」高炉と呼ぶのでしょうか非常に大きな建築物とともに建ち並んでいました。また、その南東方向にはこれまた巨大な「敦賀セメント」の工場が建ち、この一帯の異様さが実感できましたが、特に崖上に建つ火力発電所によって当陣屋跡が吸収されてしまったのではないかと思いました。

 

釣り場となっている海岸沿いから見た「北陸電力敦賀火力発電所」

 

「敦賀(鞠山)陣屋」が今一つでしたので、ここで「日本三大陣屋」のあと二つを少し紹介だけしておきます。

 

まず「飯野陣屋」(千葉県富津市)についてですが、藩主は「保科家」です。

 

「保科家」は、「武田家」の家臣でしたが「徳川家康」が家臣として取り立て、「保科正光」が「高遠城」城主であった時に、二代将軍「徳川秀忠」の妾の子として誕生した「正之」は、正室の「お江与の方」の嫉妬を恐れて「保科正光」に預けて育てられた話は有名です。

 

そして、「正之」を「保科家」の養子として継がせたことから、「正光」の弟である「正貞」がその後幕臣として取り立てられ、さらに度重なる加増や大坂定番に任じられて摂津内で1万石が与えられたことから、1650年頃に所領が1万7千石となり大名となりました。

 

それに伴い「保科正貞」の居所は、関西での役職(大坂定番や大坂加番)が多かったことや所領も関西の方が多かったので、関西と房総の二か所に置かれました。

 

房総での居所がこの「飯野陣屋」(千葉県富津市)で、関西では「浜陣屋」(大阪府豊中市浜町)を置きました。

 

「飯野陣屋」は、前方後円墳の「三条塚古墳」を取り込んで造られ、古墳の周堀を取り込みながら陣屋周囲も堀で囲んだ非常に広い敷地面積を誇る陣屋でした。

 

「飯野陣屋」概念図(陣屋跡内に掲出)

陣屋内に取り込まれた三条塚古墳

陣屋南西角掘

陣屋本丸南西部の土塁

 

「本丸」「二の丸」、そして内邸(うちやしき)と外邸(そとやしき)に分かれる「三の丸」で構成され、「本丸」には枡形がある「大手門」、「三の丸」には「搦手門」が据えられていました。

 

「飯野陣屋」大手口付近(枡形になっていた)

 

藩主の居所や藩庁は「本丸」にあり、「二の丸」には上級藩士の屋敷が並び、「硝煙蔵」も置かれ、「本丸」から拡がる「飯野神社」の敷地にもなっていました。

 

陣屋本丸内の「飯野神社」(1758年に6代藩主正宜がこの地に移す)

二の丸内の焔硝庫と稲荷塚跡

 

「三の丸」の大半が、「三条塚古墳」となっていて、古墳が物見的な役割を果たしていたようです。また、北側の道沿いには、非常に高い「土塁」が続いています。現在は、畑地になっていましたが、兎に角、広大さを実感できる「陣屋」跡でした。

 

陣屋西部(三条塚古墳を取り込んでいる)

陣屋北部(右の木立内は三の丸)

 

もう一つの「徳山陣屋」(山口県周南市)は、「長州藩」の分家「毛利家」の城主格の「陣屋」で、つい最近(10/24)のブログ『“尊王攘夷”と“倒幕活動”を推進した「毛利家」各藩の「お城」紹介』でお届けした所ですので、詳細は割愛しますが、現在は、「周南市文化会館」「周南市美術博物館」「徳山動物園」「祐綏(ゆうすい)神社」等の敷地となっていて、当時の広さは実感できる陣屋跡となっています。

 

「徳山陣屋」跡に建つ「周南市文化会館」

 

そして、僅かに「土塁」「陣屋庭園」及び「徳山毛利家霊社」である「祐綏(ゆうすい)神社) 」が史跡として見ることもできます。

 

土塁跡(市文化会館敷地内)

陣屋庭園跡(市文化会館敷地内)

「祐綏(ゆうすい)神社) 」(市文化会館東側)

 

徳山陣屋 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12633633859.html

 

「日本三大陣屋」についてのお話は以上としまして、次に向かったのが、「北陸電力敦賀火力発電所」の真南にそそり立つ岩山の上に築かれていた「金ヶ崎城」跡です。次回のブログでお届けします。

 

 

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