前回のブログで再開した『①外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下し、そして、②最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避していく その間に起こった出来事に纏わる「お城」を採り上げる』シリーズは、「鹿児島(鶴丸)城」を採り上げました。

 

そこでも触れましたように、「薩摩藩」と「長州藩」が土佐の「坂本龍馬」の仲介で、二藩が協力して討幕をめざす「薩長同盟」を結び、京都を中心に過激な倒幕行動を強め、幕府方の京都守護職「松平容保」は、配下の「新選組」に取り締まりを一層強化するよう指示をしました。

 

「薩長同盟」よりも前から「京」においては、「尊王攘夷」を目指した過激派志士が集まり不穏な動きが目立っていました。

 

本日は、このような不穏な動きを抑える為に「京」に置かれた、江戸幕府の「役所」を採りあげて紹介したいと思います。これら「役所」も、江戸幕府の出先の「広義」のお城だとされています。

 

元々は、江戸幕府の要職であった「京都所司代」やその指揮下にあった「京都奉行所」が治安維持の業務についていましたが、前述の過激志士による要人暗殺(天誅)や商家への押し込み等が横行したことから、「所司代」や「奉行所」では手に負えなくなりました。

 

そこで幕府は、上記二組織の更に上位となる「京都守護職」を1862年に置いて、「京」の治安維持と御所・二条城の警備を図ろうとしました。そして、万が一の場合は、畿内諸藩の軍事指揮権も有する権力が集中するポジションとしました。

 

その「京都守護職」には、会津藩主の「松平容保」が就任し、当面は「金戒光明寺」(京都市左京区黒谷町)に置きますが、1864年に「京都守護職上屋敷」(京都市上京区薮之内町)が完成してそちらに拠点を移します。

 

移築現存の「京都守護職上屋敷 屋敷門」

「容保」は、当初は断り続けましたが、当時の政治総裁職「松平春嶽」等からの再三の説得と藩祖「保科正之」の遺訓を出され、「正之さまならばお受けするだろう」と言われ為、家老たちの反対を押し切って就任しました。

 

「京都所司代」ですが、こちらの職は、「京都守護職」が置かれるまでは、江戸幕府の西国支配の中心的な役割を果たし、加えて公家や門跡の監察、「京」市中の法制・裁判、畿内とその周囲3か国の公事・訴訟等を管掌する重要なポジションでありましたので、幕府要職の若年寄や老中への登竜門的なポジションでした。

 

「容保」が「京都守護職」に就任したときは、「長岡藩主」の「牧野忠恭(ただゆき)」で、その後1864年には、「容保」の実弟で「桑名藩主」であった「松平定敬(さだたか)」が就任し、兄弟ともども幕末の「京」の治安維持に努めました。

 

しかし、治安が益々悪くなる中で、「容保」は「新選組」を今まで以上に活用して取締りを強化したことから、幕府が崩壊し「鳥羽伏見の戦い」で将軍「徳川慶喜」とともに「江戸」に逃げ帰り、更に「会津若松城」へ戻りましたが、「薩長」中心の「明治新政府」から朝敵とみなされ徹底攻撃を受ける運命となります。

 

以上の様な歴史動向がありましたが、「京都守護職上屋敷」や「京都所司代上屋敷」等の当時の敷地内屋敷構成は良く解りませんが、その敷地跡の現在を見てみたいと思います。

 

京都守護職上屋敷」(京都市上京区薮之内町)は、現在「京都府庁 旧本館」敷地となっていて、正門前の生垣の中に「京都守護職上屋敷跡」碑が立ちます。

 

「京都守護職上屋敷跡」碑

 

こちらには碑しかありませんが、「京都府庁 旧本館」は開放されていて見学が可能です。明治37年(1904年)築、ルネッサンス洋式で左右対称の建物配置となり、中は和風の優れた技術も駆使されているので、明治時代を感じることが出来る重要文化財の建造物です。

 

「京都守護職上屋敷跡」跡に建つ「京都府庁 旧本館」(左右対称の建物)

「京都守護職上屋敷跡」跡に建つ「京都府庁 旧本館」内の廊下

「京都守護職上屋敷跡」跡に建つ「京都府庁 旧本館」内の2階執務室

「京都守護職上屋敷跡」跡に建つ「京都府庁 旧本館」内の2階執務室

 

この「京都守護職上屋敷 屋敷門」だけが建造物として「平安神宮」西側にある「武道センター」と観光バス駐車場の間に、ポツリと佇んでいます。「高麗門」形式で扉には鉄板張りと鉄鋲が打ち込まれている非常に堅固な門です。

 

移築現存の「京都守護職上屋敷 屋敷門」

移築現存の「京都守護職上屋敷 屋敷門」(高麗門)

移築現存の「京都守護職上屋敷 屋敷門」の潜戸

 

「松平容保」が就任した当時に本陣として使用していた「金戒(きんかい)光明寺」ですが、当寺は江戸時代の初めに江戸幕府によって城郭化したお寺に造り替えられていましたので、「幕府」は、「上屋敷」ができるまで「容保」をお城替わりとして、このお寺に入れたようです。

ここは高台にありますので、ここからの眺めは京都を一望できる監視しやすい位置だったのかもしれません。ここへは、会津から約1,000人が滞在したそうです。

 

城門の風格がある「金戒光明寺」の高麗門

「金戒光明寺」山門から御影堂

「金戒光明寺」御影堂

「金戒光明寺」から見下ろす京都市街地

 

京都所司代上屋敷(京都市上京区藁屋町)は、現在の「旧 待賢(たいけん)小学校」の校舎が建つ場所にありました。「二条城」の北側にほぼ隣接することで、前述のように「二条城」の管理も行っていました。

 

「旧 待賢(たいけん)小学校」は、明治2年(1869年)に「上京第十七番組小学校」として開校し1997年に廃校となった学校です。その校舎の西側に「京都所司代跡」碑が立ちます。

 

「京都所司代跡」碑

「旧 待賢小学校」の校舎東に立つ「京都所司代跡」碑

「京都所司代」跡に建つ「旧 待賢小学校」の校舎

 

そして、なんと「京都所司代上屋敷」の玄関が、奈良県「柳生の里」に移築されています。現在、「柳生十兵衛」の弟「友矩」の邸宅跡に建てられている「正木坂剣禅道場」の正面入口に移築され組みこまれているそうです。

 

以前、「柳生陣屋」(奈良県奈良市柳生)に訪れた時に、城下を散策していてその事を知って驚きました。

 

「京都所司代上屋敷」の玄関が組み込まれている「正木坂剣禅道場」の正面入口

 

また「京都町奉行所」もあり、1668年に創設され「京都所司代」の指揮下で職務を行いましたが、実際は「遠国奉行」の一つで「老中」支配でした。業務は、畿内と近国8ケ国の幕府領内や寺社領の訴訟処理を受け持ち、東西の奉行所が置かれ月番制が採られました。

 

上述では「町奉行所」と記載しましたが、江戸や大坂とは違い「東御役所」「西御役所」と呼ばれていたそうです。

 

いずれも「二条城」の近くで、「東町奉行所(東御役所)」(京都市中京区西ノ京職司町)は「二条城」南堀対岸にあって、現在は「NTT西日本壬生別館」から「神泉苑西側」の敷地が跡地のようで「東町奉行所跡」碑が立ちます。

 

「東町奉行所跡」碑

「東町奉行所」跡に建つ「NTT西日本壬生別館」

「神泉苑」西側の敷地も「東町奉行所」跡地

 

また「西町奉行所(西御役所)」(京都市中京区西ノ京北聖町)は「二条城」のやや西側にあり、現在は「中京小学校」の敷地で、 敷地南西隅に「西町奉行所跡」碑が立ちます。丁度JR嵯峨野線「二条駅」前になります。

 

「西町奉行所跡」碑

「中京小学校」 敷地南西隅に「西町奉行所跡」碑

「中京小学校」の敷地(右側)が「西町奉行所」跡地(左はJR嵯峨野線二条駅)

 

以上のように、「京」の街中には、「京」及び畿内・近国の幕府領内の警察・裁判機能を持つ役所に加え、江戸時代初期から「京」の朝廷や公家及び西国の外様大名を監視し、そして幕末には悪化が進む治安維持の為に、三重構造となりますが幕府の出先機関が置かれるようになりました。

 

次回のブログでは、地方における尊王攘夷を目指す過激な動きが、幕府の代官所等にも襲撃を加えるようにもなり、その標的となったお城類の一部を紹介していきたいと思います。

 

 

 

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