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もんく [マレーシアで働いて13年→2022猫を連れて日本]

車の窓に流れる景色を見て思った

久しぶりにパンを買いに行った。パン、前にも何回か書いたのでこのパンの事は(美味しいけど)今日は書かない。

そこはとてもカンプン・カンプン、つまり村だな、そこにあるので車でないと行かれない。なので車を走らせる。窓に景色が流れる。流れると言う事はその瞬間にも時間が経過して行っている証拠だ。こうして車を走らせている間に1秒、1秒...1分、1時間、1日....と時間が過ぎる。

この時間、運転しかしていない。他の事していたら事故起こして死ぬだろう。田舎でもマレーシアは車が多いのだ。時々交差点があって車が停車して曲がろうとしているし朝市の行き帰りで横断する人もいる。これはうっかりしていると死ぬか殺す。

こうして運転してる1秒は仕事してお金もらってる1秒と同じだ。どっちが大切なのか? お金が付く方か? いや、お金付こうが付くまいが、人生と言う意味においては同じだ。生産性があって価値か?と言うとそんな事じゃない気がする。刻一刻と時間は終わりに向かって過ぎて行く。

突然思い出した。以前大島で会った美味しいアイスクリームを作っていたOさん、少しご無沙汰していたうちに亡くなっていた。後から知った。東京で工場を経営した後に大島でアイスクリームとドーナツを作っていた。港で買って船で食べた。美味しさに驚いて後から手紙を出したのがOさんを知ったきっかけだった。

あのOさんが残したものは何だったんだろう。もう亡くなったのでアイスクリームもドーナツも無い。工場は畳んだのでずっと前に無い。ご家族の事はわからないが他人から見ればそれはもう思い出の中にあるだけ。実体としては何も無い。

自分の父はどうだった? 古い家は残ったが他には何も無かったと思う。Oさんとは社会的にも経済的にもずいぶん違う。でも、亡くなってしまった後にはそう違いは無い。全て誰かの記憶の中だ。それは亡くなった後に大きな何かを残す人もいる。でも大概の人は父と同じだ。自分だってきっとそうだろう。

では、残さなかった人生って何の意味も無いのかと言うと、それは違うだろう。この流れる景色の一瞬一瞬、これ、まさにこれ自体が人生そのものであるように思う。何か生み出しても生み出さずとも。ダンスのように動きを止めたら無くなってしまうが、だからダンスに価値が無かったとは言えないのと同じ。
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