シス・カンパニー「わたしの耳」@新国立劇場小劇場 | 明日もシアター日和

明日もシアター日和

観たもの読んだものについて、心に感じたことや考えたことなど、感想を綴ってみます。

作 ピーター・シェーファー

上演台本/演出 マギー

出演 ウエンツ瑛士/趣里/岩崎う大

 

 シェーファーの作品は「エクウス」「アマデウス」がよく知られているけど喜劇も多く書いていて、以前に劇団四季の「ブラック・コメディ」を観た記憶が……。この「わたしの耳」はドライな悲喜劇という感じかな。1962年初演で、当時のロンドンの香りがする。

 

 あらすじ→内気なボブウエンツ瑛士)はクラシック音楽の超オタク。クラシックコンサートで知り合ったドリーン趣里)に一目惚れし、自宅でのディナーに招待する。女の子との会話に慣れていないので、会社の同僚で話し上手なテッド岩崎う大)にも来てもらう。ドリーンが訪れてもぎこちない会話しかできないボブだけど、クラシックのウンチクになると饒舌になり喋りまくる😅  ドリーンは退屈している😩  テッドが社交術を発揮してドリーンの心を掴みかけると、それに気づいたボブはテッドを追い返す。ドリーンと2人きりになれたのにやっぱり会話は弾まず、ドリーンも帰ってしまう。1人になったボブは宝物として大切にしてきたクラシックレコード盤を激しく傷つけ、虚しく部屋に佇む😢

 

 ボブ現実社会に馴染めない理想の世界の住人。納品書を書くだけの仕事を終え、帰宅してクラシックを聴く毎日。ボッティチェリの描いたヴィーナスを「あらゆる美の源、ほんものの美しさを備えている」と崇め「ヴィーナスのうなじとドリーンのうなじが同じだったから」ドリーンが完璧な女性に見えたって🤣  なのに、現実のドリーンとどう会話すればいいのか分からない。ドリーンにオペラを無理やり聴かせるんだけど、その登場人物に自分を重ねることでしか自分の気持ちを表現できないのね💦  彼がドリーンに話す言葉は自分に聞かせているだけのようなときもあるし、彼女と自然に話そうとして泥沼にはまることも。褒めたつもりで「ほうれい線が美しい」とか言っちゃうし😸

 

 一方、ドリーンには自分というものがありません。父親が絶対で、口癖は「パパが……って言ってたわ」で自分の考えを持たない。クラシック音楽には実は全く興味がなく😊  毛皮のコートはフェイクで自分を素敵に見せるために着ている。彼女にはボブの言葉はクラシックと同じくらい退屈で全く耳に入ってこなくて、テッドのテキトーな誘いに難なく乗ってしまうわけです。ある意味、とても普通な女の子かな。

 

 でもってテッド上昇志向旺盛な実利主義者仕事でも恋愛でも処世術を身につけていて上手く立ち回っているけど、スノッブでちょっと虚栄心が強いです😬  ボブに対しては偉そうに振る舞い、ドリーンに対しては調子を合わせて心に滑り込む。でも、ドリーンがタバコケースに電話番号を書いてくれてるのにそのことを忘れて帰る彼は、その場の気分でドリーンを誘っただけとしか思えないわけです😑

 

 最後、ドリーンが帰るときボブは「自分は婚約しているんだ」と、失恋で傷つきたくないための嘘をつきます。そして、ドリーンが知りたがっていたテッドの会社の名前と住所を教える。そこは自分の職場でもあるから、そう言って教えてもいいのに、ドリーンの心の中に自分はもういないことを悟ったのね😞  理想の女性だったはずのドリーンに無視され、理想の世界であるクラシックレコードの表面を針でぐしゃぐしゃに引っ掻くボブがちょっと哀れ。 ザラザラ、ボツボツと醜い音を出すレコードは傷ついたボブの心そのものだった😭

 

 原題は「The Private Ear」で、どうしてこのタイトルを付けたのかイマイチ不明🙄  耳はとっても個人的なもので、人が話してることは本人に都合の良い風にしか聞こえてないってこと? ボブとドリーンの会話は空回りするし、テッドとドリーンのやり取りはうわべだけだし、ボブとテッドの会話は発展しない。相手の言っていることを聞いても、そこから相手を理解しようとせずに勝手に解釈してしまう。だから思惑はすれ違い、心の距離は縮まらないということだろうか🤔

 役者同士が割と距離を置いての演技だったけど、不自然さはなかったな。役者さんたちは、それぞれ役柄を理解して丁寧に演じていたと思います(上から目線ですみません🙇‍♀️)。特にウエンツ瑛士は、社会にうまく適応できず他人とつながるスベを知らない悲しき青年という感じがよく出ていました〜🎉

 

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