越中富山の薬売り県は富山城(とやまじょう)に来ました。
富山城は天文12年(1543)、神保長職(じんぼながもと)によって築かれました。戦国時代富山城を巡っては一向一揆(通称・浄土宗本願寺教団の信徒)や、上杉謙信(長尾景虎)(通称・越後の龍、自称・毘沙門天の化身)、武田信玄(通称・甲斐の虎、御屋形様)らによって攻防が繰り返されました。と言うても信玄は直接富山までは来てないんちゃう?言うてみれば、信玄派VS上杉派となって戦った代理戦争やね。謙信(景虎)は越中まで進出してますが。
天正6年(1578)、長職の子とされる神保長住が織田信長(通称・尾張の異端児)の後ろ盾を得て富山城に入城した。しかし、天正10年(1582)3月、長住は上杉方に内応した家臣に背かれて城内に幽閉されて失脚し、替わって富山城主となったのが、佐々成正(愛称・さらさら越えくん)で、富山城を居城として大改修したんですね。
成正くんは「本能寺の変」後には秀吉と離れ、「小牧長久手の戦い」で和議となった後。厳冬の立山山系を越えて浜松まで出向き「三河殿、再起を図り秀吉と雌雄を決すべし!」と説いたが、家康は首を立てに振らず、成正の命がけの説得も実らなかった。これぞ成正の「さらさら越え」 その伝説が現代にも語り継がれています。
天正13年(1585)秀吉は10万の大群で富山城を包囲。成正は城を明け渡し降伏。領土は没収とくんとなる。
越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが慶長14年(1609)に建物の主要部をことごとく焼失したため高岡城に移る。
寛永16年(1639)加賀藩第三代藩主前田利常(通称・鼻毛大名)が次男の利次に10万石を与えて分家させ、富山藩が成立。
明治4年(1871)廃藩置県により廃城となり、建築物は払い下げられた。
現在の富山城は富山城址公園として整備されています。🅟は地下駐車場で、鉄馬車を停めると公園のど真ん中に出て来たので、わざわざ一旦城外へ出てから攻城開始。
公園東側にある富山城で唯一の現存建造物千歳御門。
千歳御門の説明。・・・・・読んどいてください。
現況比較図
空の色が冴えない千歳御門 門の向うに天守が見えます。
富山城は主要な門周辺以外は土塁の城であったらしい。したがってこの石垣は現存物!と思うなかれ。現況比較図を見ての通り、元々この場所には門は存在しなかった。千歳御門の移築によって新造された石垣であるらしい。
門の右手には野面積みの石垣が積まれてます。石垣の向うには佐藤美術館があり、三層の天守風建物がありますが、行ってません。
千歳御門を潜って振り返って撮る。
また振り返って公園内の複合連結式望楼型3重4階の天守を撮る。元々は城門であった石垣の上に建てられた訳で、模擬天守となります。発掘調査や古絵図からして元々富山城には天守は存在しなかったとされています。
越中・富山城 撮ったど~!!
模擬天守内は郷土博物館となっています。
模擬天守前から見た公園(本丸跡)の様子。
前田正甫の像
おおっ!富山の薬売りの行商は正甫さんが広めたとな 紙風船は
城址公園は市民の憩いの場となり、富山城模擬天守は富山のシンボル的存在となってるようです。
本丸の南にあった大手虎口は、カクッカクっと折れ曲がってます。右に見える石垣は櫓台。この櫓台は現存であるとのこと。
現存櫓台。上に登りたいとこやけど、ご覧の如く柵がしてあり登れない
虎口には鏡石を配備!
入城してくる者に対して鏡石を見せびらかせ威圧感を与える心理作戦。あ~こわかった
またよぅさん鏡石置いてることで。実は鏡石はデカい事には間違いないが、意外と奥行きがなくて薄っぺらいのですよ。
南側(元二の丸。今は道路)から見る模擬天守。昭和29年4月より富山城跡の敷地一帯で富山産業大博覧会が開催され、鉄筋コンクリート構造による模擬天守が記念に建てられました。意外と古いのね。
犬山城を参考に建てられただけあって、やっぱ犬山城に似てるね。まぁそこそこ立派でキレイし、富山城て、これで定着してないこれはこれでまあええと思います。なんで千鳥破風を中央に持ってこんかったんやろ?
土橋も現存のようやね。金沢城に続き冴えない空なので、も一つパッとしない画になる。やっぱ天守撮るには青空ほしいねぇ。
模擬天守といえど、水堀があり、石垣の上に瓦屋根の建造物が建つ。日ノ本でしか味わえない城の風景。それだけで十分である。
こりゃまたオセロみたいな石垣を積んだもんやね これは十分ではない
オセロみたいな石垣の城内側は土塁が残ります。
郷土博物館に入りまして富山城の歴史や史料を見て勉強。写真はこれだけやけど充実した良き内容でした。
望楼部から見た千歳御門。
櫓台を見下ろす。クソジャマなアミアミを強調してみました こんな場合は上の写真みたいにもっと網に近づいて撮りましょう。ただ乗り出しすぎて落ちないように注意しましょう。アミアミは外観も損ねるし、眺望も損ねる。
前田家の紋である加賀梅鉢。ただ利家の梅鉢と軸が少々異なる。利長以降はこの加賀梅鉢紋が定着したのであろうもん。
成正くんの歌碑
何事も かはりはてたる世の中に 知らでや雪の白くふるらん。
本能寺の変後、秀吉と敵対し、家康に兵を挙げるよう要請したが断られ、失意の胸の内を読んだ歌と云われる。
(信長が死に)世の中も変わってしまったのに、そんな事も知らずに、今日も白い雪が降る。そんな感じでしょうか。
富山城を退去した成正くんは秀吉の御伽衆などを務めます。九州征伐で功があり、肥後一国を与えられましたが、国人一揆を鎮めることができずに、上方へ弁明のため上る途中の尼崎で切腹させられました。享年53。
以上、富山城主としては佐々成正より前田家の方が断然長かったんですが、富山城といえば佐々成正くんがまず浮かびます。成正くんの面影は何一つない富山城でしたが、水堀と大手虎口と模擬天守がそこそこ良き感じな城で御座いました。
そして次回は遂に北陸小討伐作戦最後の城に相成ります。
19/07/06