首里城 エライ事になりました。
30年かけて復元した物が一夜で灰燼と化す。
失火・・・非常に残念である。
今回からお盆休みの8月10日、11日と信濃国へ遠征しましたので、そのシリーズを送りたおします。(信濃といいましても南信濃方面です)
長野県飯田市追手町
飯田城(いいだじょう) 別名・長姫城(おさひめじょう)
飯田城といえば「天空の城」・・・・ではない。これは城跡の横にあった温泉旅館です。
(この場所も山伏丸という郭があったところ)
飯田城はもともと、修験者の行場であったところを、室町時代に飯田を治めていた豪族・坂西氏が城を構えたといわれています。信濃守護小笠原氏の一族とも、阿波国(徳島県)出身の近藤氏の一族ともいわれていますが、天正10年に滅んだ一族のために文書が残されておらず、詳しいことはわかりません。
やがて、甲斐の武田信玄(通称・坊主大名)が信濃を制圧すると、天文24年(1554)、坂西政之は武田家に従属しました。
秋山虎繁(武田二十四将。岩村城での信長の叔母・おつやの方との云々が有名です)が、信濃・大島城に入ると、坂西家はその組下となり、軍役60騎を勤めています。
永禄5年(1562)、坂西長忠のとき、信濃・松尾城の小笠原信貴の領地を押領したとされ、武田信玄に訴えられた結果、武田軍勢と松尾小笠原勢に飯田城は攻撃を受け、坂西一族は討死し、事実上、滅亡しました。
こうして、飯田城には秋山虎繁が入り、城を改修しています。
天正10年(1582)、織田信長(自称・第六天魔王)の甲斐攻めにおいて、飯田城は真っ先に攻撃目標となりました。このとき、飯田城を守備していたのは、保科正直で、織田信忠(別名・三位中将)の大軍が迫ると、城を捨ててへ逃亡しています。
武田家滅亡後は毛利秀頼(信長の赤母衣衆)が高遠城を与えられて、飯田城を含む伊那郡を統治しました。
惟任光秀の本能寺の変で毛利秀頼は尾張へ逃亡し、信濃は火事場泥棒の徳川家康(通称・三河どの)の支配化となり・・・
菅沼定利(家康家臣)
毛利秀頼(返り咲き)
京極高知(近江守護の名門)
小笠原秀政(信濃守護小笠原氏の末裔)
脇坂安元(貂の皮安治の息子)
寛文2年(1672)堀親昌(名人久太郎の孫)が入封し、以後、堀氏が12代、明治維新まで続いてます。
つかれた
明治維新後は城内に筑摩県(信州中部・南部を管轄する県)の飯田支庁が置かれた。飯田城の遺構はほとんど残っていないが、本丸は明治13年(1880)に創建された長姫神社の境内になっており、石垣、空堀、土塁の一部が残っています。
城は連格式に4つの郭が配置されていた。現在、三之丸は県合同庁舎、追手町小学校、市立図書館に、二之丸は美術博物館、本丸は長姫神社、山伏丸は冒頭で登場した旅館が建っています。
因みに、グーグルマップで見ると、縄張りがそのまんまの形で残ってるのが見れる。
本丸跡に建つ長姫神社。御祭神は堀秀政、親昌、親良。
この石垣の上に白塀が建っていたとか。
信濃・飯田城 撮ったど~
本丸跡説明板(二回目)
本丸跡に建つ柳田國男館。柳田國男さんは兵庫の福崎出身やね。近くを通り看板見たことある。
この書屋は東京から移築したそうです。朝早すぎてまだ開館してませんでした。
本丸と二の丸との間の空堀の説明板。
二の丸側から空堀に下りて行けるので、行ってみます。
橋の下の空堀(堀切)。けっこう鋭く幅広ですよ。そして、蜘蛛の巣に引っかかった
空堀の石垣・・・・これは近年のモノ。
二の丸大通り跡。
水路跡
水路跡と説明板。
再現なので水は湛えられてない。
井戸跡。これも再現
二の丸御門跡。門の向うが二の丸で見える建物は美術博物館。こちら側には民家があるのでこういうアングルで。
二の丸御門跡の説明板。移築された二の丸門が近くに現存するというのに、見に行ってないという愚かなわし
地面に描いてある横断歩道は何 と考えてみたら、発掘で水路が見つかった場所を表示してるのかと。
二の丸跡に復元された門と塀。
桜丸跡に現存する桜丸の正門である、通称・赤門。赤門で現存するのは珍しいようです。実物見たことないけど東大の赤門(旧加賀藩主前田家上屋敷御守殿門)は有名。
こちらが正面。右側に別屋根で番所が附属している。
鬼瓦の向梅は堀家の家紋だもん。
赤門そばの井戸は本物っぽい。けど中身はありませんでした。
う~ん はっきり分かる遺構は本殿裏の石垣(アヤシイが)と、本丸と二の丸との間の迫力ある堀切。あと、一つ見損ねたけど現存する門が見所ってとこでしょうか。いろいろと復元し、伊那地方の岩石の展示などがあり、頑張ってる様子は窺えました。
信濃遠征1城目ですので、まぁぼちぼちと。
うぎゃ~ 討ち取って候~
すんません。美術館の裏を散策してたら寝てはりましてん
19/08/10