今年の盆休み信濃遠征2城目です。

 

もう3ヶ月前になる。月日が経つの早いのう。

 

薄れていく記憶の中、撮った画像を見、記憶を呼び戻しながら作業する今日この頃。

 

 

 

長野県下伊那郡松川町

 

大島城(おおしまじょう)。別名伊那大島城、・台城(だいじょう)

 

何故、海無し県なのに大島なのかはてなマーク 何故、台城なのかはてなマーク 城になってる所が大きな島のようだったから。城が台地になってたから。大方そんなところデス。

 

大島城は松川町南端の天竜川に面した段丘の半島状突出して構えられている。こちら側は御覧の如く断崖絶壁になっており、とても攻め入る事は出来なかったでしょう。橋を渡って左へグリ~と迂回すれば城の正面となります。

 

 

橋の上から見る天竜川の流れ。向こう(上流)は諏訪湖から流れてき、太平洋へと注がれている。

 

 

現在城跡は台城公園となっています。公園入口のこの看板の後方にいきなりド~ンビックリマークスゴイモノが現れてしまいます。目 ← こんな目しながらとりあえず奥の駐車場まで。

 

 

トイレ完備の公園(城跡)駐車場。休憩ちうと思しき車が2台のみ。

 

 

遂に遂に! 御屋形様の足跡残る領域までやってきたビックリマーク(今さら感ありやけど) 前記事の飯田城もそうなんですが、憧れの御屋形様の名を目にしてゾクゾク&ワクワクで激熱の猛暑日も忘れる。しかし公園の字がヒョロちいあせる

因みに、まだデジカメもスマホもない古き時代に武田神社(躑躅ヶ崎の館跡)へは行ったことはある。

 

【縄張図】 武田流築城術の特徴である、三日月堀、丸馬出が良好な状態で残っているという。(左端の半円のやつね)

 

武田流築城術 早口言葉で3回言え

 

言えたはてなマーク

 

 

大島城は平安末期この地方を領した大島氏が築いたのが始まりと云われている。

天文23年(1554)下伊那を占領した武田信玄は永禄年間になると駿河侵攻を目指すにあたって、元亀2年(1571)、戦略的に重要視した大島城の大改修を、飯田城代であった秋山虎繁(通称・おつやに一目惚れ)朱印状をもって命じた。

 

駄菓子菓子元亀4年(1573)4月、信玄死す。

 

天正3年5月の「長篠の戦い」武田勝頼を破った信長は、6月、嫡男信忠美濃・岩村城攻撃を命じ、半年余の籠城戦の末、降伏勧告を受け入れた城主虎繁は城兵の助命を条件に開城した。

駄菓子菓子戦国の世はそんな甘いものではなかった。和睦の会見に現れた信繁と妻・おつやは捕縛され逆さ磔にされた。おつやは信長自ら切り捨てたとも。

 

因みに、秋山虎繁は信玄五女の松姫と信長嫡男・信忠の婚約の使者として岐阜に赴き、信長から大いに饗応を受けた信玄から信頼されてた譜代家老衆である。

 

勝頼は西の要である岩村城を失ってしもたことになる。

 

天正10年(1582)2月、織田信長の甲斐侵攻が始まり、大島城に織田勢が迫る。この時大島城は日向大和守(甲斐の国人で武田氏家臣)が在番してい、援軍として武田信廉(信玄の弟、通称・逍遙軒)を派遣するが、飯田城の落城を聞き、織田勢に抗し難しと、夜陰に乗じて城を捨て逃亡してしまいましたとさ。

 

ああ、嘆かわしや・・・しょぼん

 

そんな大島城は虎繁の、武田氏時代の遺構が残っています。

 

 

公園入口へ。

 

 

ズッド~ンビックリマークと見事に弧を描く、これぞ武田流築城術の特徴である三日月堀ビックリマーク 木がジャマで見難いが土塁を挟みもう一つ堀があります。

 

堀が二重にあり、その向こうに丸馬出があるんですわ。土塁上の木がなければ~ビックリマーク 

 

 

武田流築城術に感動。素晴らしき土木工事術。記憶から消えないように脳裏に焼き付けておこう。

 

 

本来城内には三日月堀側が大手となり丸馬出を経由して入城するんですが、な、南斗ビックリマーク北斗ビックリマーク元斗ビックリマーク丸馬出に民家がぁ!? 城主なのかはてなマーク どういった経緯で住んではるんやろはてなマーク お尋ねしたい気もするが、勝手に進入して怒られたらアカンのでやめとこあせる 歯科士、丸馬出に民家なんかありはてなマーク 今までの城で民家とか私有地等なかったことはないが、この城では超重要なたけだりゅうちくじょうじゅちゅな丸馬出に民家て・・・もうええわやめとこ。

 

 

駐車場のトイレ横から道ありますので、そこから城内へ。ただ、この道は横堀を断ち切った形で通っており、民家の敷地を通って城内へ入るのも何かと都合が悪いので、公園化に伴い新設された遊歩道なんでしょう。

この道の左右は外堀で、城側は土塁により城内を遮蔽しています。

 

大手丸馬出を援護、防御する馬出し

 

 

 

遊歩道から見た外堀。正面奥が民家がある丸馬出。右側が駐車場。

 

 

外堀の向うにの井戸はてなマーク 行ってみよう。

 

 

堀底を以外にも多く歩かされる(3分くらい)

 

 

井戸の場所はここではなく、本丸の下にあるらしい。この観音さんは供養するために建立されたという。このままもっと先へ行けば井戸跡があったかも知れないが、説明石を良く読まないでここで引き返してしまったショック!

 

で、なんで供養かと言うと、落城あるある伝説です。

 

天正10年(いちごパンツ)の織田軍侵攻の落城のおり、お姫様が黄金のニワトリを抱いて井戸に身を躍らせたという悲しい伝説が伝えられている。そして元旦の早朝になるとニワトリの鳴く声が遠くかすかに聞こえると云われてる。はぁニワトリの声はてなマーク

そこはコケコッコ~!やのうて、お姫さんのシクシクと違うんか~えビックリマーク

 

 

弓道場ではなく三の丸へ。

 

 

三の丸

 

右(駐車場側)には土塁により高低差が付けられ、城外からは城内の様子は見えないようにされ、城内側から攻撃し易くしている。

 

 

三の丸奥から。マレットゴルフのコースになっちゃってます。

 

 

三の丸の土塁。

 

 

櫓台は良く分からなかった。真夏なので仕方ない。

 

 

奥に弓道場がある。

 

 

そして丸馬出からの大手となる桝形虎口

 

 

桝形虎口が薪小屋虎口になってる~叫びぎょへ~ビックリマーク 

どうも内桝形になってるようなんですが、桝形を形成してた土塁も削り取られてるもよう。薪小屋の向うは丸馬出ですが、なんともかんとも言葉を失いましたわ。ここの家は薪で風呂沸かしてんやろかはてなマーク

 

 

元亀2年に三の丸を増築されるまでの二ノ丸馬出があります。三の丸完成後は二の丸との間に横堀が掘られ、馬出は三の丸と土橋で連結されている感じです。

 

土橋

 

 

深くて幅広ですが堀は草っぱち。

 

 

土橋を渡っての馬出は休憩所。

 

 

遊歩道へ戻り、二の丸と三の丸を分断する横堀を見ながら二の丸へ向かいます。

 

 

上に同じ。しかし深いビックリマーク広いビックリマーク

 

 

 

心得て候。

 

 

二の丸へ突入しますが、続いてしまいます。

 

 

 

 

19/08/10

 

 


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