『麒麟がくる』始まりましたね。
近年はツッコミ所満載の戦国モノでも、信長、秀吉、家康が絡んで来るとやっぱ観てしまう。
初回から色彩豊かなあの画面は回を重ねるごとに馴染んでくるのでしょうか
第一回の感想をば2,3述べますと、
冒頭からいきなりの「七人の侍」ばりの野党とのチャンバラです 刃こぼれしまくりでしょ
因みにこの時代はぜんぜん兵農分離してないです。
それと、今は道三やなくて利政かな。入道になって坊主になるのはまだ先やけど、モッくん蝮道三がカッコ良すぎ。
まだまだ始まったばかりなので、今後如何なることに相成りますやら。
過度の期待は禁物で御座いまする。
では、前回お届けした安芸土居から安芸城へと攻め入りとうございます。
戦国期には安芸城の安芸氏は土佐国東部で最大の勢力を誇っていた。安芸城最後の城主・安芸備後守国虎は、土佐の制覇を狙う長宗我部元親と対立し抗争を繰り返していたが、永禄7年(1564)には元親と和睦した。
永禄12年(1569)4月初旬、元親は国虎に岡豊(長宗我部の居地)に来訪して友好を深めようと使者を派遣したが、これに対し国虎は使者を追い返し、重臣の黒岩越前の諫言も聞かずに和睦を破り義兄の兼定とともに元親を討伐しようとした。
駄菓子菓子
7月に元親は7000の兵を率いて安芸領に侵攻。対する国虎も5000の兵を率いて、安芸城、新庄城、穴内城などの防備を固める。
駄菓子菓子
国虎は八流の戦いで大敗してしまい城も悉く落とされてしまい、国虎は安芸城に籠城を決め込む。
駄菓子菓子
譜代の家臣らの多くが元親に内応したため防衛は困難な情勢となる。それでも24日間にわたって抗戦したが、兵糧も尽き、一条氏からの後詰も無く、城内の井戸に毒を入れられるなどの調略により落城寸前になったため、家臣と領民の命と引き替えに自害することを元親に申し入れた。
8月11日、国虎は菩提寺の浄貞寺に入って自害。享年40。
このとき、重臣の多くが国虎の後を追って殉死した。
その後、元親は安芸氏の所領をことごとく平定し、実弟の長宗我部親泰を安芸城に入れて安芸氏の名跡を継がせようとしたが、家臣に反対されたため安芸守を名乗らせたという。
こちらは後藤家の先祖を祀る麓にある藤崎神社。
今日も何事もなく城攻めできますように~
後藤家の先祖とは山内一豊のほっぺから矢を抜き取った後藤為浄(ごとうためきよ。たけだてつや)である。なんでも矢を抜き取るのになかなか抜けなんだので、草鞋を履いたまま顔を踏みつけて抜き取ったと云う。抜き取った鏃は後藤家の家宝に、履いていた草鞋は藤森神社の御神体となったと伝わる。
はぁ わしはわらじにお参りしたんか~
後藤家の家紋の上がり藤に一であろう。藤紋(フジモンではない)は藤原氏の流れを汲む家柄が多いが、本家は下り藤。上がり藤は本家と区別するために分家が使用したと云われる。後藤家は名に藤が付くからには藤原氏の分家を称してたんでしょう。(詳しく調べてないから知らんけど)
書道美術館の正面が安芸城の登り口です。
上の方は樹木でよく見えないが、そんなには高く積まれてそうにない。安芸城の石垣は後にも先にもここだけで見れました。今立ってる所は後藤家時代の家屋が建ってた場所なので安芸氏時代の石垣ではなく後藤氏時代の土留めの石垣かも知れないですね。
比高41m、東西100m、南北190mの楕円形をした平山城です。
登り初めて間もなく、ハッキリ言ってさして広くない三ノ段があります。先ほどの石垣の上部にあたります。
三の段南端には櫓台でしょうか、円丘があります。
円丘からの眺め。二階建て以上の建物がないのでスッキリしてるっていうか平たい。
三ノ段から上へ
三ノ段の上にある二ノ段の虎口。
二ノ段もさして広くはない三角形の郭デス。
二ノ段からの眺望。三ノ段と同じく街全体がスッキリしてる。
ニノ段から登ると詰、または詰ノ段(主郭)の虎口が見えます。
詰から見た虎口部分。虎口両側の土塁はそこそこ高さがあります。
詰(主郭) 広さはそこそこあり、南側、今立ってる虎口の辺りからU字的に土塁が囲っている。
そこそこって表現もよう分からんが・・・まあそこそこです。
土佐・安芸城 撮ってもた ど~
詰の土塁はなかなかええ感じで残ってます。
なかなかええ感じっていう表現もよう分からんが、わりとええ感じで残ってマス。
詰の僅かな段差に石
詰の北側は一段低くなっておりに北ノ段があります。西面に土塁があるのが確認できます。
東側には土塁がありませぬが、草っぱちなので行ってませんが、切岸になっており下には帯曲輪があります。
詰と北ノ段との段差。
段差の部分に石っ
段差の部分は石積っされてますね。これから安芸城を攻められる方はこの石積も見逃さないようにしましょう。
北ノ段の西側の土塁。
草っぷりがスゴイですが土塁中央部に虎口があり、西下方への降り口となっているようです。
最期に詰の段からの眺望。三ノ段とほぼ同じ角度です。
安芸城は広大な城ではありませぬが、そこそこええ城跡でした。
安芸氏が滅んだあとは、元親弟の長宗我部親泰が入城したが、当主・長宗我部盛親が関ケ原の戦い後に改易となり所領は没収とくんとなる。そして一両具足の反抗でなかなか土佐に入ってこれなかった山内一豊(通称・伊右衛門)が土佐に入封し家老の後藤氏が安芸を預かったということに相成ります。
城跡があり武家屋敷が残る城下町があり野良時計がある静かな町でした。
この後、国虎の代わりにわしが攻め撮るぜよ、岡豊城
19/10/13