仕事でよく京都へ行くんですが、先日も祇園のメインストリート花見小路を通りまして、いつも大勢の観光足軽(特に大陸足軽)でごった返してるんですが、新型肺炎のおかげで閑散としてむっちゃ見通し宜しいがな。観光足軽を見込んでる御商売の方々には打撃でありましょうが、こんな京都がやっぱしよろしおますわ。因みに、ミナミの千日前通りもぜんぜん少なかった。

 

有名観光地へ行くなら今か!?

 

 

ほな、烏帽子形城の続きです。

 

曲輪へ上がって行きます。

 

曲輪にあった復元予想図。御覧のように横堀と土塁は大規模なのですが曲輪自体はけっこう小規模です。

 

 

土塁上から曲輪方面へ登って行く。ここは城域に入ると遊歩道を設けずに堀底道か土塁上が通路にされてい感じですね。

 

 

2曲輪デス。正面の主曲輪の南から東に巡ってる腰曲輪になっています。

 

 

2曲輪南側。

 

 

2曲輪のもっと南側

 

 

主曲輪へ。

 

 

主曲輪

 

河内烏帽子形 撮ったっど~クラッカークラッカークラッカー

 

 

主曲輪にあった城の説明。烏帽子形城は南北朝時代に楠木正成が鎌倉幕府への抵抗の拠点とするために築城した城砦群で、千早城、下赤坂城、小根田城(上赤坂城)桐山城(上赤坂城)龍泉寺城、金胎寺城との楠木七城と呼ばれるうちの1城です。

説明文にある甲斐庄氏とは楠木正成の弟・楠木正季の子孫が河内国錦部郡甲斐庄を領有し、甲斐庄を名乗ったことに由来する。楠木氏の一族ではあるが、室町時代に河内守護であった畠山氏に降伏し、その家臣となり本領安堵された。 

最期の城主・甲斐庄正房は天正年間に城を離れ徳川家康に仕え、大坂の陣後にまたこの地に戻って来ますが、大規模な城を維持できずに元和3年廃城処分とし、どっかいっちゃったみたい。子孫は長崎奉行やら勘定奉行やらになったようです。

 

 

主曲輪の説明板。

 

 

主曲輪に建つ宝篋印塔と石碑。

 

 

再現した礎石建物跡。

 

 

曲輪から北方向だけ眺望が効きます。山城では長閑な風景を見慣れてるが、河内長野ゆうてもやっぱここは大阪なんや。

 

あの異様な塔をご存知でしょうかはてなマーク バベルの塔でもバビルの塔でもありません。超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔、通称・PLの塔デス。高校野球で有名であった高校や←過去形、あの本名・パーフェクトリバティー〇団があるとこです。因みに、私は花火大会でしか近くまで行った事はない。

 

 

主曲輪からの眺望は北方面だけで、主曲輪は御覧の様に細長くて狭いのです。南端にも礎石建物跡が復元されています。

 

 

南側の礎石建物跡。コンクリの土台で固めてありマス。

 

 

主曲輪を南から北方向を見る。

 

 

主曲輪から見た二曲輪(帯曲輪)と横堀、土塁、横堀(二重横堀)木がだいぶジャマやね。

 

 

主曲輪から南へ下りていきます。

 

 

主曲輪(左)を下りた所にうねってる横堀っビックリマーク 外側は高い土塁。

 

 

少し進んで振り返っての横堀。一直線ではなくジグザグになってる。

 

 

横堀の出口を入口側から。突入しようものなら横矢から土塁上から矢玉を喰らうことになる。

 

 

横堀を出ると堀内障壁がある巨大横堀の所へ出てきました。

 

 

土橋を通って退却いたします。

 

曲輪の規模は大した事ないのに、土木量の規模がハンパなく驚きの城でした。烏帽子山自体が山麓にある烏帽子八幡神社の神域とされてるために、大規模な改変工事が行われなかったようで、遺構が良き状態で保存されてるのが嬉しいですね。麓から容易く攻め入る事もできるので苦しい思いせんで済みましたわ。

 

 

山麓にある烏帽子形八幡宮へも参りました。

 

 

神社の説明と烏帽子形山の説明。

 

 

本殿文明12年(1480)建立

 

 

拝殿

 

 

楠木正成が武運を祈願して植えたとされる老松の巨木が!?

 

 

昭和九年に六百年の寿命を閉じたようです。その松の一部を展示してありました。

 

 

 

 

 

次回は某が参上仕り候ビックリマーク

 

 

 

おしまい。

 

 

 

 

19/11/02

 

 

 


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