城を攻めていると様々な城にまつわる伝説に触れることができる。
その多くは落城にまつわる悲劇的な伝説である。
今回の城も悲劇・・・とは言い難い伝説がある城である。
兵庫県加古川市志方町岡
播磨・中道子山城(ちゅうどうしやまじょう)
築城時期は定かではないが、南北朝時代、赤松則村(円心)の4男の赤松氏載(氏則)が築城したとされます。
応安2年(1369)、赤松氏載は、摂津で反乱を起こし、兄の則祐や従妹の光範らに追討され、天王寺で一族と共に討ち死にする。これによって中道子山城も城主を失うことになる。
その後、赤松氏の一族である孝橋繁広が中道子山城の城主となる。嘉吉元年(1441)、嘉吉の乱で赤松本家は滅亡、孝橋繁広も中道子山城を失いますが、応仁の乱に乗じて、赤松政則が赤松家を再興、中道子山城には繁広の子の繁景が入りました。その後天正年間まで、孝橋氏が中道子山城の城主として続いていきますが、織田家による播磨侵攻により羽柴秀吉に攻められ落城し、廃城になったようです。
山の上まで続いてそうな舗装道は、この先に馬車止めがあり先に進めず。この場所に鉄馬車駐車場があり、ここから徒歩にて出陣。
この看板は大河ドラマ「軍師・官兵衛」の時に設置したかな。今となっては懐かしい。
因みに、光(てるorみつ)ゆかりの地というのは、官兵衛の妻・光は同じ加古川市にある志方城主・櫛橋伊定の娘だから。
車止めを過ぎても舗装した道が続く。実は事前調査でこの先はどうなってるか知ってるんですけどね。
舗装道をトボトボ歩いてると途中に旧道がある。頂上最短て書いてある ただ、クサリ場コースていうのがヒジョーにビミョーで、だいたい想像はできる。
見上げると・・・うはっ! 想像以上の登城道かも知れんので、やや遠回りになるやろが上りは舗装道からにし、帰りは旧道を通ってみよう。
ほれほれっ!鉄馬車十分に停めれるスペースあるやんけ あっ失礼 トボトボと20分くらいアスファルト歩かされて結構疲れた。何故にここまで鉄馬車で上がって来れぬ
舗装道が終わり、いよいよ山道に突入。急勾配でますますしんどそう ただ、そこそこ整備されていてそこそこ歩きやすいデス。
山道に入り10分位で大手門跡へ。先ほどの旧道とはここで合流する。旧道というのは大手道であったもよう。
現地にあった縄張図。比高270m連格式山城です。右下の道から上がって来て、現在は大手門の場所。これより大手門を突破し、城内へ乱入したならば、まず三の丸方面の攻略に向かいます。
大手門を過ぎれば石 櫓台跡デス。登城道を駆け上がって来る敵をビシバシと矢玉を喰らわせる。
櫓台の脇を通って進んで行くと、その上の半円形の曲輪。標柱には二の丸の表示が。外側には土塁。大手門を見下ろす位置にあり大手門を突破しようとする敵をバコバコと攻撃するための曲輪であろうかと。ただ、ここがほんまに二の丸と呼んでいたのか
大手門を打ち破り櫓台からの攻撃もかわしどんどん進みます。ただ、ここでも左上から降って来る矢玉をかわさなければ城内へは辿り着けない。
分かれ道が現れますが、右が本来の城内への道で、左の階段は一見虎口に見えますが、上にはかつて神社が祀られており、その参道の為に造られた道のようです。
左の階段を上った場所。灯篭がある左手が台状になっていて、以前そこに神社があったようです。往時は物見櫓があったかもですね。
分かれ道へ戻り直進すると、ほんまもんの虎口デス。標柱には城門。縄張図では櫓門となっています。門内の内側には石組みが見えます。なかなか堅固な門であったことが伺えるもん。スンマセン
城門に入り込んで振り向き撮る。
城門入り左を向けば先程の階段の上部。通路側は土塁あります。城門に迫る敵兵をビシバシと攻撃できます。
城門を突入したところの曲輪。木が生茂っているので広さが伝わらないですが、そこそこの広さはあります。本当はこっちが二の丸だと思うんですが
これは何か祀られてますが、社務所跡か社殿跡でしょうか竹ぼうきや草刈り機やらが置かれてることからして、現在は整備する地元の人達の休憩所になってるような感じですし、祭典にでも使われてるんでしょうか?床がやたらとキレイし。
建物跡の後方の藪多き斜面を少し下りると井戸跡がありますが、恐怖の井戸と化しております 柵がしてあり井戸の形状も分からない
本丸は最後に討ち入ることにして、まず三の丸方面へ。神社の名残りでしょうかハンパない石仏さんの数。石仏の数が過去最高な城です。
三の丸。キレイに削平されてまずまずの広さがあります。そこそこ木があるが広さは伝わるかと。
斜面にはお地蔵さん。
三の丸北西の土塁。
三の丸北側に搦手門跡がありマス。屈折されて石組みにて構築されていたもよう。縄張図にはこの先に堀切が二本書かれてるので、その堀切を確認しに搦手道を下りて行きます。
搦手門の石 意外と大きい
一本目の堀切②
空堀状になってます。
堀切②から堀切①へ行くのがまた困難極まりない道なき道でおまけの急斜面付き。ロープやなしに木の枝が手摺変りに簡素に取り付けられいたりして、ズリズリ滑りながら下ります。帰りもズリズリ滑りながら登ります。コケるのは免れました。
堀切①
城域側は岩盤むき出しのなかなかなの大堀切っぷり。
逆方向から撮る。
この城をめぐってこんな伝説が伝わる(初めの説明板を読んだお方はお分かりかと)
天正年間(1573~1592)羽柴秀吉(通称・羽筑)の播磨侵攻により中道子山城に秀吉の軍勢が迫る
城側は敵を城内へ入れてはならぬと、堀切の斜面に油を塗ったタケノコの葉を敷き詰めた。
「どうじゃスッテンコロリンとスベリまくって城には進入でけんじゃろ!」
ほくそ笑んだのも束の間。
秀吉の一声。
「葉っぱに火つけたれ」
ぶお~
瞬く間に火は燃え移り落城を早めてしまったとさ。
なんともマヌケな作戦で落城を早めてしもた中道子山城であった。
まだ終わりではありません。
後編へつづく。
19/11/10