美濃・明知城から三河・市場城。

そして美濃国へ取って返し土岐市へ来ました。

 

岐阜県土岐市妻木町

美濃・妻木城(つまぎじょう) 別名乙姫城

 

標高407m、比高190mの山城でして、北側山麓にある屋敷跡から徒歩で攻め込めますが、城跡近くに駐車場があり、しんどい思いしたくないのでちょっと窮屈な山道を鉄馬車で楽ちんちんと城跡近くの駐車場まで駆け上がって来ました(対向車には注意が必要)。駐車場すぐ傍に登城口があります。

 

現地説明板。良くお読みください。

妻木城土岐氏の一族である土岐明智氏の居城です。戦国時代に入ると土岐明智氏の一族である妻木氏の居城となりました。

 

妻木城といえば明智十兵衛光秀の妻・煕子(ひろこ)の実家とされていますが、彼女の史料がほとんど残っておらず、その実像は分かっていません。そもそも彼女の父親からして妻木範煕妻木広忠の2人の説があり、生まれた年も3説あります。死去した年も光秀より早く病気で死去したとか坂本城落城の際に死去した2説あります(これは病気説が有力)。分かっているのは光秀の妻となり、3男4女をもうけてること(これも異説ありですが)と、「麒麟がくる」では木村文乃ちゃんが演じてるということくらいです。

因みに、煕子が死去した後に光秀は煕子の妹を側室に迎えたという説もあります。

 

 

現地縄張図。本陣とした駐車場からピューと行ってビューと行きます。

 

 

実際にはピューと行かずに一歩一歩踏みしめて行く。

 

 

ここも巨石ビックリマークがゴロゴロと。巨石あるとこには石垣あり!石垣造りにする石を山の上まで運搬する手間が省けますからね。ただ、どんだけの規模の石垣造りにするかが問題ですが。

 

 

切り通しにしたら巨石が出て来たちゅう感じですか?

 

 

ほんまにデカい。

 

 

南曲輪がある。

 

 

南曲輪 縦長に削平されており南方面を監視した曲輪であろうか。

 

 

巨石で形成した虎口(実際虎口だったかどうかは不明)。しっかしこんな巨石を積むかぁはてなマーク と思ってたら、説明板に「人が積んだように見えますが、これ「節理」という現象で、マグマが地下で冷えて花崗岩になる時に、収縮して等間隔に割れ目(節理)が多数できます。地表に現れた時、風化浸食によって四角形のかたまりに分かれ、あたかも人が積んだように見える」とある。

しかし階段のところは巨石をどけて虎口にしたのかも。

 

 

土塁

 

 

ほんま巨石を切って積んだように見えますが自然現状(節理)なんですよね。

 

 

曲輪Ⅲへ出た。

 

 

曲輪Ⅰ(本丸)は眺望が効かなかったので、この曲輪Ⅲが唯一の眺望が効く場所です。妻木町、土岐氏北部、多治見市街地が一望。白山、御嶽山、中央アルプスも見えることができるそうですが遠すぎてかすんでるしわからないあせる

 

 

曲輪Ⅲから曲輪Ⅱへ。石段は往時のものか?

 

 

曲輪Ⅱの虎口。鳥居が見える。柱石もありますが往時の物かどうか分からない。神社関係の物かも分からない。分からないばっかですんません。

 

 

曲輪Ⅱ 桝形虎口となっている。凹ってる部分が内桝形のようです。発掘調査により、門跡が確認されたようです。礎石が見つかったかな。曲輪内に鳥居があるのは、曲輪Ⅰにがあるからです。

 

 

曲輪Ⅱに入ると石垣ビックリマークが見える。石垣上は曲輪Ⅰ(本丸)になります。

 

 

そう高くは積まれてないがイイ感じです。隅部は算木積みがまだ確立してないっすね。そやけど巨石だらけの城やのに石垣の石は小ぶりです。石垣積んだ職人さんはけっこう神経質やったかも

 

向って右には石段。この石段は曲輪Ⅰの祠のためにこさえた?

 

 

大きい石もある。鏡石的な石か?巨石がいっぱいあるので鏡石も必要ないね。

 

 

向って左はスロープになって桝形虎口になっている。本来の虎口がこっちで、右側の石段は祠のための参道としてこさえたのではないか?そんな感じなんですがどないでっしゃろか?

 

枡形の部分。低い石垣で構成されてるが、往時には土塀が建てられ石段には門があり、曲輪Ⅰ内は見えないようになっていたと思われる。

 

枡形を上から見る。

 

 

曲輪Ⅰ

 

美濃妻木城 撮っクラッカークラッカークラッカー

 

 

曲輪Ⅰにある城山八幡神社

一休さん 無事に登城させていただきありがとござます。無事本陣へ帰り着けますように~

 

 

物見杉は明治三年に幹が裂け立ち枯れたそうで、戦後に下駄を作るために切り取られた跡が残っている。そやけど木に登って物見をしてたのか?なんと原始的な。

 

曲輪Ⅰに居座る、いや、居寝転ぶ巨石は旗立岩。取り除こうとしたのかくさびを打ち込んだ跡が残ります。旗を立てた伝承があることからこの名が付いたと。

 

旗を立てたかどうかは伝承であるが、わしは旗立岩の上に立って曲輪Ⅰを見渡す。

 

 

曲輪Ⅰを出て城の西側へ向かうと太鼓櫓蔵跡との堀切。

 

 

太鼓櫓(曲輪)へ進入してみます。

 

 

広くはないが奥が盛土して高くなっている。太鼓櫓の櫓台であったもよう。ビックリマークが数個見えますが、櫓台に石が積まれていたかどうかは不明。

 

 

櫓台の向うにはドーンビックリマーク堀切。そしてバーンビックリマーク島津十字はてなマーク 城を改修するにあたってあちこちにある巨石は都合よくもあり悪くもあったようで、堀切にある巨石を除去しようとくさびを打ち込んでバラそうとしたんでしょうね。十字に見えるのはくさびの跡です。要するにくさびを打ち込んで巨石を砕いて手頃な大きさにして積み石に使用するのですが、巨石すぎて諦めてほったらかしてたら現代は観光スポットになってしまった幸運な巨石です。

 

アセアセ こりゃダメだ。言ったか言わなんだか。

 

 

太鼓櫓と堀切を挟んでの蔵跡

 

 

井戸跡 土塁に囲まれた内側にあり、ここを水源とする沢は南側へ登山道に沿って流れています。水量は多くありませんが、年中絶えることはありません。と書かれてるが、絶えているあせる

 

 

井戸跡の土塁

 

 

井戸跡の先には先程の堀切。この場所も堀を切ったら巨石が出て来たという感じでしょうか。

 

 

堀切から見る太鼓櫓のキョーレツ切岸

 

 

くさび巨石の後方にもう一つ堀切。

 

 

本能寺の変の後に起きた山崎の戦いの際、城を治めていたのは第12代城主の妻木広忠であったが、広忠は惟任(明智)軍に属して敗北し自刃したため、嫡男の妻木頼忠が跡を継いだ。

そして可児郡の金山城を本拠とする森長可(もりながよし)に攻められたりしたが、勝てる見込みがなかったために森長可の配下に加わった。

関ヶ原の戦いでは頼忠は徳川家康につき、その際の戦功により頼忠は徳川家康から改めてこの地域を所領として与えられた。山の上の城では生活が不便であるため、城のある山の北側の山麓に屋敷を築いて住み始めた。ほんで元和年間にこの妻木城は放棄されたとみられる。

 

 

そして、我はこれから山麓の屋敷跡へ向かう事となる。

 

 

 

 

20/3/20

 

 

 


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