この記事数日前に仕上がってないのに「下書き保存」のつもりが無意識に「投稿する」をプチっとしてしまいました。数分の間でしたが「いいね」いただいた方すみません。
ところで今年の大河ドラマ『駒がゆく』
ついに堪忍袋の緒がだいぶ切れた 受信料かえせ~!
〇HKさんにお願いがあります。
「明智光秀」を主人公で新たに大河ドラマしてください。
では、激暑盆連休のつづきです。
しまなみ海道を渡って本州に上陸しました。
広島県三原市城町
備後・三原城 別名:浮城、玉壺城 安芸ではなくギリ備後です。
お読みください。
小早川隆景(こばやかわたかかげ)―毛利元就の三男で長男・隆元が早世し元就の後に家督を継いだ隆元の嫡男・輝元を次男・吉川元春と共に毛利両川として毛利氏の発展に尽くした。豊臣政権下では秀吉の信任暑く、五大老の一人に任ぜられる。実子がなく木下家定の子で秀吉の養子となっていた羽柴秀俊を養子として迎え、家督を譲っている。(毛利本家の養子になるのを隆景が回避し小早川家の養子にしたという)その秀俊が小早川金吾中納言秀秋というのは周知の如く。
江戸末期の三原城絵図。
現在は 南斗 JR山陽本線が城を真っ二つにぶち抜き三原駅が城のど真ん中に建設されたという残念な城跡である。
本陣はイオン三原店(図の右側)があったので、その駐車場にタダで本陣を定めさせていただきました。ご安心ください、昼餉はイオンでいただきました。
本陣(イオン)から出て道路を横断すると、いきなりキタ━(゚∀゚)━石垣~ 駅まで進軍しないと遺構が見れないと思っていた矢先、突然現れた石垣に暑さも吹っ飛ぶ。いや、やっぱ暑い
舟入櫓跡の石垣のようです。水堀もありますが、水堀ではなく往時はここまで海だったわけで、ここまで埋め立てられたということです。
反対側は児童公園。激暑なのでだれも遊んでいない
ええ感じやね
刻印も見っけ
石垣の上に行けるのか回り込んでみる。
行けそうな感じ。
行けた。特に何もないが満足した。
市内の何ヵ所かに往時の石垣がこんな感じで残ってるようです。激暑すぎるのでこれ以上散策せず
三原駅の高架下へ来ると 駅舎と合体している石垣が 落し積み?
高架を北側に抜けるとドドーンと天主台石垣 緩やかな勾配がイイ感じ。
※三原城は「天守」ではなく「天主」と表記する。因みに安土城も「天主」です。
一国一城令に耐え、三原駅の建設にも耐えた、まさに奇跡の天主台
天主台西側の武家屋敷の跡地である隆景広場から。
天主台石垣の説明板。
三原城の歴史。関ケ原後には広島城に入った市松(福島正則)の支城であったようです。市松改易後は浅野氏ですね。
天主台北側の後藤門跡(2016年に復元)
内堀を回り天主台を外から眺めてみます。
これだけの天主台を築きながらも天主は建てなかったようです。
いや~よくぞ残してくれました。旧国鉄さんに感謝!いや、山陽電鉄さんか?
後藤門の辺りから。勾配の美
内堀にはカープが優雅に泳いでいる。
こっちの隅は算木積みになってます。小早川氏以降に修繕したか?
内堀の幅は往時のまんまであるそうです。
因みに、水堀の幅は鉄砲の射程距離です。中世山城の横堀の幅は槍の穂先が届く距離です。でないと攻撃できませんから。それに狙いやすいようにどちらも城外側より城内側の方が高所になっているのが基本です。一概にそうとはいえませんが・・・
どの角度から見ても美しい
石の大きさを揃えての乱積み。たまんね~
回り終わってしもた。
南斗駅舎の中から天守台に上がる事が出来るのです これは三原駅北口になる。
北斗鉄道の高架の圧力にも耐える恐るべし石垣。
駅舎に入り天守台に上がります。
カープかよ
ホームには入らないので入場券はいりません。タダです。
天守台の上は緑豊かな公園。
天主台にあった説明板。
備後・三原城 撮ったど~
天主台から見る隆景広場。
北側に見えるとんがった山は三原城の詰城(桜山城)。
駅の観光案内所にて登城記念符を乱捕りゲット。新高山城は小早川氏が三原城を築くまでに本拠としていた城で、三原城を築くにあたって石垣をごっそり三原城に運び込んだたという山城。攻め込んではいませんが一緒に分捕り ゲットしました。新高山のは和紙です
朱印は小早川氏の三つ巴。市松の福島沢瀉秀吉から拝領。浅野家の一風変わった餅の内に杵。
あらえっさっさ~三原の「やっさ踊り」は築城完成を祝って老若男女が踊ったのがはじまりらしい。しらんけど
鉄道が本丸を貫いたというのに、ほんまよく天主台の石垣を残してくれました。
感謝と感激の三原城をおわりマス。
20/08/14