今年は美濃方面へ向かうのが増えた。
大河の影響か。
越前方面へも行かねば。金ヶ崎内容薄かったな
丹波攻略戦、はしょらないでほしい。
9月の日帰り遠征です。
岐阜市鷺山北町
鷺山城(さぎやまじょう) 別名:道三の隠居城、帰蝶が住んだ城
岐阜城から見える矢印が鷺山城。ちっちゃ
鷺山城は標高68m、比高47mの鷺山に築かれており、山頂に本丸があります。登城道は何か所かあるようですが、この城山東側にある北野神社から突撃しました。
鳥居を潜ってすぐ左手に鷺山城の説明板と斎藤道三の慰霊碑。
神社横の鷺山公園から登城できます。両脇はぜんぜん石垣ではありませんので。
段曲輪を何段かやり過ごす。ただ段曲輪ではなく公園の広場であろうかと。
残暑が激熱ですがそんな時間はかからんので辛抱して登る
散策道は整備されてるので山頂目指し辛抱して登る
激残暑を辛抱すること5分で、いや4分で登れた
途中に展望所があります。さして広くはなく二の丸ってとこですか。
室町時代は美濃国守護であった土岐氏の城であったが、斎藤利政(道三)が土岐頼芸を追放した後、岐阜城を長男の義龍に譲り、道三と号し自らの隠居所とした。弘治元年(1555)道三は義龍に鷺山城から追放されちゃってます。そして翌年に親子対決「長良川の戦い」 (道三軍2千7百、義龍軍1万7千。結果は周知の如し。因みに道三は首を落とされ、鼻も削がれた)
その後鷺山城は廃城になったようデス。
展望所からは岐阜城が望める。
尾根をもう少し登る。
本丸である山頂に到達。因みに縄張図のたぐいはありませんでした。
美濃・鷺山城 撮ったどー
山頂にある説明版
山上にはさしたる遺構は認められず、平時は東山麓に居を構えたようです。発掘調査と文献から守護土岐氏が城下町を営まれてたことがわかっているらしい。
因みに、土岐頼純に嫁いでいた「濃姫」(帰蝶)は頼純が死去(殺害?打ち死に?)したのち、実家に戻り、それから織田信長に正室として嫁ぎ、「鷺山殿」と呼ばれたりしたが「帰蝶」「胡蝶」「濃姫」「鷺山殿」「於濃の方」「川口春奈」と様々な呼ばれ方があるが、本名も分かっておらんのです。
因みに、濃姫は頼純に嫁いだのが数えで12歳と云われてます。数えで12って満10歳やがな!頼純の前には土岐八郎頼香(すぐ道三に殺される)に嫁がされてます。なので信長に嫁いだ時点では15歳でバツ2であった。恐ろしき戦国時代。
山頂(本丸)を奥から。
本丸を北へ行くとスドーンと堀切が。
堀切
堀切から見る本丸側は切岸。
堀切上、本丸の北側の曲輪跡、そこには廃墟の如く寺院跡らしき建物。
太子殿があったようです。どう見ても閉店してるでしょ?
石垣 太子堂の石垣でしょう。
堀切の東側は竪堀かと思ったら「どんぐりの森」であった。
西側には散策道が麓に続いてい、その横を竪堀らしき堀が。
少し下りて本丸側斜面を見るとマジで竪堀。
薮と竹が散乱してて判別しにくいですが、竪堀が数本あるのが確認できます。畝状竪堀になってるかも知れない。
もう少し整備されたほうがよろしいかと。
マムシの道三の紋である二頭立波紋は道三自身が考案したものと云われる。潮の満ち干を戦の駆け引きに例えたもので、右に三つ、左に二つ飛ぶ飛沫(写真のは裏返ってマス)は「この世には割り切れるものと割り切れないものがある」ことを示唆してるという。
大河効果もあって整備されて集客に努めてるのかと思いきや、散策道はあるものの特に整備されてる感じはありませんでした。まあ目立った遺構が残ってないってこともあるんでしょうが。ただ、目と鼻の先にある岐阜城と扱いに差があるんじゃね?と感じた鷺山城で御座りました。
つづく
20/09/20