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パドヴァ 運河と旧市街

 



       パドヴァ

 まるでドイツの町のようだ、ぎっしりと建てこんだ
 破風
(ギーベル)の路地が黄昏(たそがれ)に和んでいる。

 できたらここで数時間、数日、いや何週間でも
 夢をむさぼり当てもなくぶらついてみたいものだ。

 ここでのんびりと麗しい胸に抱かれ
 軽々しい愛を無駄に楽しんでいたい。

 わたしはここにずっといたい――もしもあの
 東のかなたに、たぐいなく明るいそらが開けていなかったとしたら。

 あそこで魅惑にみちて輝かしく、待ち設けているのは
 わたしの目的地――ヴェネツィア!そこまではあっという間だ。




 パドヴァは、ヴェネチアに近いイタリア北部・ロンバルディア平野の町ですが、古代ローマ→東ローマ帝国→ランゴバルド族→フランク王国→神聖ローマ帝国→ヴェネツィア→オーストリア帝国→イタリア王国……と、史上のあらゆる国家、民族の侵略と支配を受けた数奇な歴史を持っています。

 中世初期にランゴバルド族の侵入と抵抗の中で無残に破壊されたパドヴァは、ドイツの神聖ローマ皇帝の支配のもとで復興されました。中世には、町の各教会の司祭は、ドイツ人で占められていました。ローマ法王とドイツ皇帝が、諸都市の教会支配権を争った“聖職叙任権闘争”で、地理的にドイツに近いパドヴァは、常に皇帝派に属したのです。ヘッセに強い印象を与えたドイツ風の町並みは、この時代の歴史によるものなのでしょう。
  【参考画像】⇒:ギーベル(破風)

 ルネサンス期にはヴェネツィア共和国の一部でした。この時代のパドヴァに、ピサから移住したガリレオ・ガリレイは、力学と天文学の数多くの発見を成し遂げています。ローマを中心とする保守的な神学、哲学の影響が及ばないこの地は、ガリレイに自由な研究をする機会を与えたのでした。

 19世紀初めのナポレオン戦争以後は、オーストリア帝国の支配勢力に対するヴェネツィア、パドヴァの抵抗が激しくなり、イタリア統一運動のもとで 1866年、パドヴァとヴェネツィアはイタリア王国に併合され、こうしてようやく、イタリアの一部として繁栄の道を歩むことになりました。

 パドヴァ出身の現代の著名人としては、アントニオ・ネグリがいます。過激な政治テロに関わった廉で有罪判決を受けながら、国会議員に当選して釈放され、フランスに亡命して執筆活動を続けたうえ、自ら帰国して残りの刑期を終えた政治思想家ネグリは、現代のガリレイと言ってもよいでしょう。


 そういうわけで、きょうの鳴り物は、ヴィヴァルディ特集になります。

 アントニオ・ヴィヴァルディは、1678年ヴァイオリニスト兼理髪師(同時に外科医でもあったはず)を父としてヴェネツィアに生まれ、25歳で司祭に叙階されました。髪が赤かったので「赤毛の司祭」と呼ばれました。

 叙階後は、ヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院でヴァイオリンを教える傍ら、同慈善院に作曲を提供し、そのリハーサルを行なう作曲家兼指揮者として勤めました。ピエタ慈善院は、捨て子を養育する目的で設立された宗教施設で、ヴィヴァルディは、才能ある女子に対する音楽教育を担当していたのです。

 最初に聴いていただくのは《海の嵐》。よく知られた曲集『調和の霊感』の一曲ですが、じつはこの曲、ギトンのお気に入りですw


 

ヴィヴァルディ「協奏曲 ヘ長調《海の嵐》」RV98.
アレグロ - ラルゴ - プレスト
ジョヴァンニ・アントニーニ/指揮,リコーダー
イル・ジャルディーノ・アルモニコ

 


 日本でのバロック音楽普及の功労者・皆川達夫さんは、「ヴィヴァルディの音楽の品のなさが耐えられない」と仰っているそうです。その言葉は、たしかに理解できます。中世・ルネサンスの宗教音楽や、独仏のバロック音楽に造詣の深い耳には、ヴィヴァルディは、「品のない」音楽に聞こえてもおかしくはありません。ヴィヴァルディの協奏曲は、慈善院との雇用関係に基いて、期限を切られて作曲したものが大部分なので、どの曲も同じパターンの繰り返しになってしまうのは、やむをえないでしょう。ヴィヴァルディの自筆譜は、どれもみな崩れた速筆で書かれており、この作曲家がいつも時間と競争しながら作曲していたさまがうかがわれます。

 しかし、金太郎飴も好きずき。これだけ繰り返しの多いメロディーで、これほど聴く者を飽きさせない作曲家も、珍しいのではないでしょうか?

 「品のない」音楽だということは、逆に言えば、イル・ジャルディーノ・アルモニコのような「品のない」演奏こそ、ヴィヴァルディの真髄を引き出すことができるのではないか? ギトンは、そうも思うのです。


 

ヴィヴァルディ「リュート協奏曲 ニ長調」RV93
ルカ・ピアンカ/リュート
ジョヴァンニ・アントニーニ/指揮
イル・ジャルディーノ・アルモニコ

 

 

 

 




 


 ↓こちらのメロディーは、聞き覚えがあるのではないでしょうか? 緩楽章だけが非常に有名になっています。 ……はい、そのとおり。ほとんど「冬」です。

 

ヴィヴァルディ「協奏曲 ニ長調」RV94 から
第2楽章 ラルゴ
アカデミア・ヴィヴァルディアーナ・ディ・ヴェネツィア

 


 フラウティーノは、いちばん高音のリコーダーのことで、ソプラニーノ・リコーダーともいいます。横笛のピッコロに相当する小さなリコーダーです。↓動画で、ジョヴァンニ・アントニーニの妙技をご覧ください。

 

ヴィヴァルディ「フラウティーノ協奏曲 ハ長調」RV443 から
第1楽章 アレグロ
ジョヴァンニ・アントニーニ/指揮,フラウティーノ
イル・ジャルディーノ・アルモニコ

 


 後半生のヴィヴァルディは、草創期にあったオペラの確立に尽力しました。しかし、オペラは慈善院とは違ってカネがかかる。ヴィヴァルディの最後は、オペラに財産をつぎ込んで破産し、夜逃げ同然にオーストリアのウィーンに逃れて同地で没したと言われています。

 しかし、↑この有名なエピソードは、事実とは若干異なるようです(⇒:wiki:ヴィヴァルディ)。ヴィヴァルディには、神聖ローマ皇帝カール6世という強大なパトロンがいました。ヴィヴァルディは、亡くなる前年の 1740年に、かねてから念願していた神聖ローマ帝国都でのオペラ興行のためにウィーンに赴くのですが、カール6世が急死したために、オーストリアは1年間の服喪に入ってしまい、オペラ興行は禁止されます。そのために、ウィーンに到着したヴィヴァルディは、多額の負債を負うことになったと思われます。失意のヴィヴァルディは病に倒れ、ウィーンの宿舎で息を引き取ったのです。


 

ヴィヴァルディ「グローリア ニ長調」RV589 から
第1曲 グローリア エクセルシス デオ
ジョン・エリオット・ガーディナー/指揮
モンテヴェルディ合唱団
イングリッシュ・バロック・ソロイスツ



 


      アルプスの峠

 多くの谷を越えて私はここに来た
 どこか行きたい場所のある旅ではないが。

 眺めれば、視界のはるかはしにあるのは
 私の青年時代の邦、イタリア

 しかし、もっと冷たい邦、私が家を建てた
 北の土地がはるか後ろから私を見つめる。

 南にむかって静かに、私の若き日の園
(その)を見つめていると
 えたいの知れない痛みが私をおそう

 私は帽子を振って北の土地に別れの挨拶をする
 そこには私のあてもない旅がやすらいでいるのだ。

 わたしの魂をつらぬいて起こる燃えるような思い:
 ああ、私の故郷は、あそこじゃない、ここでもない! 



 

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