小説・詩ランキング

 


 



       願うこと(Bitte)

 おまえがその小さな手をぼくに与え、
 その手がそんなにも多くの語られなかったことを語るとき、
 そのたびにぼくはおまえに斯
(こ)う言って尋ねたっけか、
 きみはぼくが好きなんだろう、と?

 おまえがぼくを好きであってほしいと、ぼくはいま望まない、
 ぼくが望むのは、おまえを近くで知ることだ、
 だからおまえがときどき黙してかつ小声で
 その手をぼくに与えることだ。


 


 ヘッセの↑この詩「ビッテ」、とても短い作品なのですが、いったいこれをどうやって扱おうかと、1年近く温めてきました。が、いま、ちょっとやり方を思いついたので、遠慮がちに出してみることにします。。。

 ↑上は、わざと逐語訳しました。原文の1行をそのまま訳の1行にして、行の中の語も、できるだけ原文と同じ順序で、1語対1語で訳して並べています。そのぶん、日本語のリズムも、日本語としての自然さも犠牲にしました。

 つまりまったくの散文訳です。

 「黙してかつ小声で」などという矛盾した表現も、ヘッセの原文 "stumm und leis" のまま出しています。いつもなら、2語の組み合わせを1語に読み取って適当に意訳するところですが、あえてそれはしません。

 ただ、訳語の選び方だけは、ヘッセの意味を素直に受け取ってもらえるように、よけいな先入見に邪魔されないように、工夫してあります。「黙してかつ小声で」という一見ありえない表現もそうですが、たとえば、lieben を「愛する」とは、あえてしませんでした。「愛」という日本語は――もとの漢語は、まったく別の心理状態を表す語です――、明治以後に造られた翻訳語で、いまでもまだ、十分に充実した意味を獲得しているとは思えないからです。

 こうしてこしらえた一見ちぐはぐな訳詩を、ここにあえて出したのは、この詩にメロディーを付けた↓下の歌を聞きながら、これを読んでほしいからなんです。

 歌はドイツ語ですが、ドイツ語がチンプンカンプンでも問題ありません。↓歌は、原文の1行ごとに、短いポーズ(休拍)があります。だから、耳で1行の区切りを聞き取りながら、眼で↑上の訳文を追ってほしいのです。

 これ、音楽関係の人から教えてもらいました。ドイツ語やイタリア語がよくわからなくてもちゃんと歌えるのは、こうやって練習するからなんだそうです。いや‥‥こういう練習をする人が多いのかどうかは知りませんがw


 

ヘルマン・ヘッセ作詞,ヨーゼフ・マルクス作曲「BITTE]
ダイナー・ブライアント/ソプラノ
ダニエル・ブルメンタール/ピアノ

 


 ↑この音源、音が小さいのですが、行を区切って歌っていて、ここでの目的にはちょうどよいので、これにしました。パソコン・スマホのボリュームを上げて聞いてみてください。

 先入見たっぷりの日本語字幕の出る音源などは、このさい敬遠しておきますw

 さて、どうでしょう? どんな印象を受けられたでしょうか?

 これが恋愛詩だということは―――恋愛詩なんですが―――とりあえず脇へ置いて、考えてみたくなります。

 前半の第1聯が完了形で疑問文、後半の第2聯が現在形で意欲願望を表す文だということがだいじだと思います。いままでにこういうことがあったけれども、これからは、こうしたい。―――そう言っているわけです。

 「おまえがその小さな手をぼくに与え」たということ、それがじっさいにどんなことだったかは、わかりません。具体的な内容を詮索してもはじまらないでしょう。「その手がそんなにも多くの語られなかったことを語」っているということ―――「ぼく」は、ここに集中しています。

 いままで「ぼく」は、その手の「語る」のは、「きみはぼくが好き」だという“意味”なんだと決めていた。あるいは、そういう“意味”なのかどうか、そのことばかりを考えていた。気をとられていた。「きみ」自身、そのどちらか以外、意識していなかったかもしれない。

 しかし、人に差し出された人の手というものは、いつでも、もっとさまざまな、豊富な、またしばしば矛盾したものを、ふくみこんでいるのではないか?…

 だからこれからは、‥“愛しているか、愛していないか”―――そんなことにばかり気をとられないで、その「手」の奥にあるもの‥‥「きみ」の胸と心臓と身体、そして広大な無意識を抱え込んだ「きみ」自身に、もっと近づいていきたい、「おまえを」よりよく「近くで知ること」が、「ぼくが望む」ことなのだ。

 そのために「きみ」にしてほしいことは、これまでと同じように「ときどき黙してかつ小声で/その手をぼくに与えることだ。」

 

 



Gaston Goor   
 


 

チャイコフスキー『ワルツ・センティメンタル』作品51の6
ヨセフ・ソコノフ/指揮
ロンドン祝祭管弦楽団

 

 

ベルリオーズ『ファウストの劫罰』より
「ラコッツィ行進曲」
アンタル・ドラーティ/指揮
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

 

 



 



「『さぐり求めると』とシッダールタは言った。『その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。また、その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に取りつかれているので、何ものをも見いだすことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。〔…〕』  

 

     〔…〕  

 

 『〔…〕一つの石を私は愛することができる、ゴーヴィンダよ。一本の木や一片の樹皮をも――それは物だ。物を人は愛することができる。だが、ことばを愛することはできない。だから、教えは私には無縁だ。教えは硬さも、柔らかさも、色も、かども、においも、味も持たない。教えはことばしか持たない。〔…〕

      
〔…〕

 ゴーヴィンダがいぶかしげに、しかし大きな愛と予感に引きつけられて、彼のことばに従い、ぐっと彼の方にかがんで、額にくちびるをつけると、彼にとって何か尋常でないことが起きた。〔…〕

 彼の友シッダールタの顔がもう見えなくなって、そのかわりにほかのたくさんの顔が見えた。たくさんの顔、百も千もの顔の長い列、流れる川が見えた。〔…〕そのすべてが絶えず変り、新たになった。が、そのすべてがシッダールタであった。

 
〔…〕心の奥深くに神々しい矢で甘い味のする傷を負わされ、心の奥深くを魅了され、溶かされて、ゴーヴィンダはなおしばし、口づけしたばかりのシッダールタの静かな顔の上にかがんでいた。〔…〕

 なんとも知れない涙が老いた顔に流れた。無上に深い愛と、無上につつましい尊敬の感情が心の中で火のように燃えた。身動きもせずにすわっている人の前に、彼は深く地面まで頭をさげた。その人の微笑が彼に、彼が生涯の間にいつか愛したことのあるいっさいのものを、彼にとっていつか生涯の間に貴重で神聖であったいっさいのものを思い出させた。」

ヘッセ『シッダールタ』高橋健二・訳、新潮文庫。 


 

 

チャイコフスキー『セレナーデ』から
第3楽章 エレジー,ラルゲット・エレージャコ
ア・ファー・クライ室内管弦楽団

 



 

 よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記

 こちらは自撮り写真帖⇒:
ギトンの Galerie de Tableau