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       決 心

 きょうまでぼくが詩のように書いてきたこと
 そうでなければこちらの国からあちらの国へと
 だらけた詩人の匠
(たくみ)とやらで追いかけてきたことごと
 かるがるしく抜いて集めた花束のすべて――
 そんなものは何でもない! この手のなかで萎れてしまい、
 ぼくは投げ捨てて新しい道を行く、
 むこうの新たな別の国へと、
 まだ知らぬ旅の目的地をめざして進む。
 この花束もいつかは新鮮で彩り豊かであったのだけれど、
 ぼくの爪先はもう別の街道へ突き進んでいる、
 お戯
(ふざ)けのすべては結局のところ――剽窃だったのだ。
 みんな無くなってしまえ! ぼくは流浪の宿なしだ。

 ひたいに皺をよせて批評家のだれやらは
 萎れた収穫物を点検し罵
(ののし)りを開始する……
 ぼくはもう遠くにいる、ぼくの帽子にはもう
 別の太陽が照っている。さまざまな遠くの世界が
 誘惑する;古めかしい手回しオルガンの唄などは
 ポケットから落っこちたところに置いていけばよい。
 年月
(としつき)の往くのは速すぎる!ぼくもまた未知の国に眼を
 向けるより、疲れた人たちの静かな輪のなかで
 咲き終った歳月を振り返って眺めている
 それがいつまでつづくものやら!休むいとまも
 与えられはしまい;草刈り鎌をもった死神が
 その冷たい手でぼくを捕らえるよりまえに、
 ぼくはこの身に大地と太陽の力を感じたい、
 それらの力をはぐくむものを、苦痛と歓びのなか
 強い腕と切なる思いで必ずや掠め取り
 死と生とをわが兄弟と呼びたく思う。

 そのとき、ある新たな歌のしらべが湧き起こるのかどうか、
 そんなことが何だろう? ぼくはただひたすら索
(もと)める者だ、
 世界をめぐり太陽と塵と風のなかに
 創造の業
(わざ)の痕跡を貪欲に探る者。

 どこであろうと或る汲み尽くしえぬ力が
 ある芽吹きが、奔流が、激情が
 うごきだし、生まれ、試みの翼を広げるところ、
 そこがぼくの故郷
(ふるさと)であるにちがいない。

 冷たい風がアルプスから颪
(おろ)してくる――
 行ってしまった、過ぎ去った、海に呑まれてしまったのだ、
 ぼくがきょうまで夢見、さ迷い、悩んでいたことごとは……
 嵐よ、兄弟、挨拶を受けよ! ぼくを拉
(さら)って行ってくれるかい?




 「手回しオルガン」と訳した「ライアー(Leier)」は、意味がたくさんあって、いろんな楽器がこの名前で呼ばれています。古くはギリシャの竪琴(リラ)のこと。シューベルトの『冬の旅』に出てくる「ライエル」は、ピアノの伴奏の音から想像すると、中世風のヴィエール(クランクを回して鳴らすオルゴール)ではないかと。しかし、ヘッセの時代にも現役だった楽器でいえば、「ライアーカステン(Leierkasten)」(手回しオルガン)になります。ことばで説明するよりも、↓実物を見てもらったほうが早いでしょう。

 

ライアーカステン(手回しオルガン)(1960年)
 


 メロディーと伴奏を打ったパンチカードのようなものが内蔵されていて、“演奏”はただクランクを回すだけです。英語では、hand-cranked organ というらしい。

 これ、見覚えありませんかね? ‥動画を見て初めて思い出したんですが、古いアメリカの映画、ディズニーだったか、チャップリンだったかに、こういうのを弾く辻音楽師が、しばしば出てきたような気がします。でも、いまユーチューブで探しても、そういう映画が見当たらないんですね。何という映画の、どの場面に出てきたのやら‥‥、どなたか、分かる方がいたら、教えていただけませんかね?

 さて、今日の詩の朗読動画も、見ておきましょう。ヘッセの言う「創造の業(わざ)の痕跡」「ぼくの故郷(ふるさと)」とは、人間やさまざまな生命の営みを包みこみ、変化させ、滅びさせてやまない巨いなる“自然”の力、生命の造った物と“自然”との激しい交渉のあとなんでしょうね。この動画の制作者によれば。。。


 

ヘルマン・ヘッセ「決心」
ウルリヒ・ゲバウアー/朗読
ラルフ・シンク/ピアノ

 

 




 


 なるほど……、静かで深みのある動画でしたが、

 でも、上のヘッセの詩は、ぼくにはちょっと違う感じに聞こえるんです。。。

 「ある汲み尽くしえぬ力が/ある芽吹きが、奔流が、激情が/うごきだし、生まれ、試みの翼を広げ」ようとする、――なにか新しいものが渦を巻いて生み出されてくるような、地面を破って出てきた昆虫が、生えたばかりの薄い羽根を広げて飛び立ってゆくような‥そんな感じがするんですよ。

 ちょうど、↓この音楽のように。。。。


 

シベリウス『交響曲 第6番 ニ短調』から
第3楽章 ポコ・ヴィヴァーチェ
ゲンナディ・ロジェストヴェンスキー/指揮
モスクワ放送交響楽団

 


 前にも書いたように、このシベリウスの6番は、ふつうの短調ではなく“ドーリア音階”という古い調性で書かれているそうです。そのせいか、私たちにはどこか親しみのある、また古風な感じがするんですね。

 そこで、民謡調のシベリウスを、もうひとつ聴いてみたいと思います。この3番になると、ロシア音楽の影響からも脱皮して、西洋音楽とはまったく違う、一種東洋風のメロディーが前面に現れます。じっさいにフィンランドにある民謡を借りてきたわけではなく、シベリウスのオリジナルらしいんですが、それにしてもまさに民謡調と言ってよいふんいきです。


 

シベリウス『交響曲 第3番 ハ長調』から
第2楽章 アンダンティノ
エサ・ペッカ・サロネン/指揮
スウェーデン放送交響楽団

 


 考えてみると、シベリウスに限らず、フィンランドの伝統とされているものは、19世紀以後に近代のフィンランド人たちによって編集されたというか、なかば作り上げられてきたところがあるんですね。この国の人たちのそういう創造力はすごいと思います。

 フィンランドといえば有名な民族叙事詩『カレヴァラ』にしても、レンロートという作家がフィンランド各地から採集した伝説歌謡をつなぎ合わせて、50章の長篇叙事詩にしているんです。その過程で、かなり手を加えているんじゃないかと思います。

 ゲルマン人の古い叙事詩が、ほぼそのまま伝えられてきた『ニーベルンゲン』とか、アイヌの“かたりべ”が唄う口承を、学者が忠実に筆記した『ユーカラ』などとは、事情が異なっています。でも、近代の文学作品として読めば、むしろわかりやすいし面白いんですね。

 シベリウスも、『カレヴァラ』にはたいへん注目してまして、全篇をオペラにしようとして努力したらしいです。とはいっても、‥なにせ長大な叙事詩で、それを全部オペラ化する計画は、シベリウスが一生かかっても果たせませんでした。それでも、『カレヴァラ』の一部は、『トゥオネラの白鳥』ほか、いくつかの音詩(トーン・ポーエム)になり、また、『クレルヴォ交響曲』としてまとめられた部分もあります。

 次回は、『カレヴァラ』のなかの“クレルヴォ物語”を、音詩+カンタータの形にまとめあげた交響曲第ゼロ番『クレルヴォ』をご紹介したいと思います。




      蘇 生

 ながいことぼくの眼は疲れきっていて
 都会の煙霧に重く閉ざされていた、
 いまぼくは身震いして目を覚ます。樹々はみな
 祭りを祝い、庭という庭で花が咲く。

 いつか子供の眼で見たように、
 ぼくは復た柔らかな広野
(ひろの)のあちこちに
 天使が白い翼を広げているのを見
 青く近く神の眼差
(まなざ)しが見えている。



 

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