回 想
そうなるまでのすべてをぼくはもう思い出せない、
ただぼくは黙して別れを告げ
黙してきみの花園から馬に乗って出たということ
それ以来妬みと悔いのあらゆる呵責を
ぼくが患いつづけたということだけが。
そしてもうどうしようもなくなって
ぼくたちの愛の上にありったけの憎しみと
金まみれの侮辱を積みあげたこと、
そのいっぽうで隠れるようにして
苦痛の杯を飲みほしに出かけていたことが。
そうして気のはやい刻(とき)が走りすぎていった;
ぼくたちの夏の夢は何年もの明色のヴェールに包まれて
そのむこうに横たわっている、
そこへ通じる扉も橋も
ふたたび見ることはもうないのだ。
↓いつかどこかで聞いたことがあるような、懐かしいメロディー。
ベルリン交響楽団は、有名なベルリンフィルとは対照的な地味でオーソドックスな演奏。ぼくは、こっちのほうが趣味ですw
チャイコフスキー『イタリア奇想曲』作品45
ペーター・ヴォーラート/指揮
ベルリン交響楽団
チャイコフスキー『フィレンツェの思い出』作品70
第4楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ
ゼバスティアン・テーヴィンケル/指揮
南ドイツ室内管弦楽団プフォルツハイム
チャイコフスキー『交響曲 第4番 ヘ長調』から
第3楽章 スケルツォ ピッチカート・オスティナート - アレグロ
エウゲニー・ムラヴィンスキー/指揮
レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
↓ケルビム(ヘルヴィム)は、『旧約聖書』に登場する天使。「創世記」で、神はアダムとエバを追放した後、エデンの園の東に「回転する炎の剣」とともにケルビムを置いて、人間が入って来られないようにした。「エゼキエル書」によると、ケルビムは、四つの顔(人の顔、獅子の顔、牛の顔、鷲の顔)と四つの翼を持ち、全身には一面に目がついている。翼の下には人間の手の形が見えており、それは神の手だという。
「 ヘルヴィムの歌」は、ロシア正教会の典礼で歌われる聖歌。イエス・キリストの受難と死を象るパンと葡萄酒を、聖体・尊血として拝領する「聖金口(せいきんこう)イオアン聖体礼儀」の一部。奉献台から宝座にパンと葡萄酒が移される(大聖入)さいに、信徒が祈りとともに歌う。
しかし、チャイコフスキーが作曲した当時、ロシア帝室聖堂は、新たな聖歌を許可なく作曲して歌うことを禁じていました。しかも、正教会の検閲官には、権力欲は強くとも音楽には通じていない者ばかりが就いていて、許可が出ることなどとても望めないことを、チャイコフスキーは承知していました。
にもかかわらず、骨のある出版業者がチャイコフスキーの『聖金口イオアン聖体礼儀』全23曲を出版し(「ヘルビムの歌」は、第10曲)、出版業者は帝室聖堂に訴えられましたが、チャイコフスキーはキエフで初演を強行しました。訴訟はまもなく出版業者の勝訴で決着しましたが、その後のモスクワ上演に対しても、正教会からの非難がつづいたそうです。
チャイコフスキー『ヘルヴィムの歌』
ヴァレリー・ポリャンスキー/指揮
USSR文化省室内合唱団
比 喩
ぼくの愛はしずかな小舟、
幻惑の櫂の水音響かせながら
燃え立つ闇にむかって奔(はし)る。
ぼくの愛は予期せぬ光、
蒸し暑い黒い夜々をつんざいて
不幸な稲妻のように消えてしまう。
ぼくの愛は病気の子ども、
夜の寝床で想いにふける;
寝床の端には死神が立つ。
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