冬の園亭(パヴィリオン)
ハドリアン式寺院の不遇な曾孫(ひまご)、
メディチの荘園の私生児。
申し訳ていどに化粧を施して、ヴェルサイユに
想いをはせながら、おまえは微笑する
おまえの階段も円柱も、甕も柱頭の渦巻きも、
粗野な浜辺には不似合いだ、
おまえが余所者(よそもの)の国に視線を送り、
魅力と魔法をただよわせているが、
それらはおまえ本来のものではない;
多すぎるおまえのガラス窓のむこう
ぐるりを囲んだ雪が冷たく見つめている。
借りものの虚飾を身につけたおまえは
大都会の道端に立つ貧しい少女に似ている、
やや無理をして微笑をうかべ
自分で見せたいと思うほどには美しくない、
その出来損ないの飾りほどには豊かではなく、
色とりどりの衣装ほどに心は明るくない。
そういう少女に似ている;いくばくかの軽蔑と
いくらかの憐れみが、おまえの受ける答えだ。
多すぎるおまえのガラス窓のむこうから
周囲の雪が冷たくよそよそしく見つめている。
前回は、チェコのスメタナを特集しましたが、今度は、チェコでも東部出身のヤナーチェクを聴いてみたいと思います。
チェコ・プラハのスメタナ、ドヴォルザークが、ドイツ、オーストリアを中心とする西洋音楽の一部だとすれば、ヤナーチェクは、むしろ非西欧的な、現代音楽の方向をめざしたといえます。
同じチェコでも、東部のモラヴィア地方は、ハンガリーや、さらに東のバルカン・スラヴ文化の影響を強く受けているのです。
ヤナーチェク『モラヴィア舞曲集』から
第2曲「カラマイカ」
アントニ・ヴィット/指揮
ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団
どうです? ハンガリー風でしょ?
「チェコの住民と地方は文化(主な特徴は、言語、民俗衣装など)によって幾つかに区分されている。
モラヴィアは、チェコ共和国東部の地方。ドイツ語ではメーレン(Mähren)と呼ばれる。面積は約26,000km2。
モラヴィアはドナウ川の支流であるモラヴァ川と、それに注ぐ河川の流域一帯である。古来から、南のアドリア海、オーストリアと、北のポーランド、バルト海とを結ぶ交易路となっていた。北海で採取された琥珀はモラヴィアを通して地中海に運ばれ、『琥珀の道』と呼ばれていた。」
⇒:Wiki:「モラヴィア」一部改
ベルリンの壁が崩壊し、東欧が“解放”された直後にチェコを訪れたことがありました。その旅行の最中にチェコスロヴァキアからスロヴァキアが独立するという事件もありました。
チェコ東部の都市ブルノ(Brno)へ行ってみると、「われわれはモラヴィア人であって、チェコとは違う民族だ。われわれも独立するのだ!」と力説しているのを聞いて驚かされました。ブルノは、モラヴィアの中心都市なのです。
26,000km2 といえば、四国地方(約18,000km2)と中国地方(約32,000km2)の間の面積。そんなに細かく独立しなくてもいいのに..., と思ったものですが。
両地域の歴史・伝統の違いは、かなりあるようでした。しかし、けっきょくモラヴィアは、スロヴァキアのように分離独立は、しませんでした。最近では、チェコのプラハでモラヴィア・ダンスがはやったり、ブルノにチェコ・ミュージアムが開館したりと、むしろ相互理解が進んでいるようすが伝えられています。
モラヴィアは、有史以来、中央アジア方面からヨーロッパへ向かう民族移動の通り道になっていました。そのため、この地の住民は、
スキタイ人→ケルト人→ゲルマン人→スラヴ人
と、めまぐるしく交替します。
しかも、モラヴィア人は(チェコ人、スロヴァキア人も)、ポーランド、ロシアなどの北スラヴ系ではなく、“南スラヴ系”。現在のセビリア、ブルガリアなどバルカン半島の住民と同系なのです。
7世紀には、中央アジアから来た遊牧民族アヴァール人に服属していました。
「アヴァール人の国家が崩壊した後、9世紀にモラヴァ川流域に拠点を置く豪族のモイミールと彼の一族に率いられた『モラヴィア人』は勢力を拡大し、国家としての形式を備えるようになっていた。チェコ、スロバキアを中心とするモラヴィア王国の最大版図は、ポーランド、ハンガリー、オーストリアの一部を含み、『大モラヴィア王国』の名で呼ばれることもある。
モラヴィア公ラスチスラフは、ビザンツ帝国(東ローマ帝国,ギリシャ正教会)に宣教師の派遣を要請した。要請に応じてテッサロニキの修道士キュリロスとメトディオスの兄弟が派遣され、グラゴール文字を用いた布教、聖職者の育成が行われた。
902年から906年頃にかけて行われたマジャール人(ハンガリー人)の攻撃はモラヴィア王国に大打撃を与え、王国は崩壊した。20世紀前半までモラヴィア王国の存在は文書史料でしか確認できなかったが、第二次世界大戦後に実施された発掘調査によってモラヴァ川沿いの遺跡が多く発見され、有力な国家の実在が立証された。」
⇒:Wiki:「モラヴィア」一部改
王国崩壊後のモラヴィアは、西のチェコと、東のハンガリー(マジャール人)から大きな影響を受けて、特有の文化をはぐくんでゆくことになります。
「大モラヴィア王国」の時代に、東ローマ帝国から派遣されてきたギリシャ正教のキリル(キュリオス)の布教は、モラヴィアに、西ヨーロッパとは異なる文化的特質を刻印しました。現在、ロシア語などで使用されている「キリル文字」は、キリルの考案したグラゴール文字に由来するものです。モラヴィアの人たちは、いまでも、この特異な事績を誇りにしているのです。
現在でも、フスの宗教改革に淵源してプロテスタントになったチェコとは対照的に、モラヴィアではカトリックが主流です。チェコとモラヴィアの教会を訪れてみれば、相違は歴然としているのです。
ヤナーチェクのなかで有名な・この曲↓も、チェコのスメタナ、ドヴォルザークの“西洋音楽”とは、一味違った東洋風?の響きをもっています。
ヤナーチェク『シンフォニエッタ』から
第1楽章 ファンファーレ:アレグロ‐アレグロ・マエストーソ
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団メンバー
「レオシュ・ヤナーチェクは、モラヴィア(現在のチェコ東部)出身の作曲家。
モラヴィア地方の民族音楽研究から生み出された、発話旋律または旋律曲線と呼ばれる旋律を着想の材料とし、オペラをはじめ管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲に多くの作品を残した。
チェコの音楽学者J・ヴィスロウジルは、ヤナーチェクの作品に濃厚なモラヴィアの地方色を見出している。ヤナーチェクは、芸術音楽は『民謡からのみ発展する』と確信し、モラヴィア民謡から音楽の基礎を会得したといわれており、その作品は、モラヴィアの民俗音楽から強い影響を受けた。
現在のチェコは、大きく分けて、スメタナやドヴォルザークの生まれたボヘミア(西部)とヤナーチェクの生まれたモラヴィア(東部)という歴史的地域から成り立っているが、両者の間には文化においても違いがある。ボヘミアが『いつも多分に西ヨーロッパの一部』で『都会風で豊か』なのに対し、モラヴィアは『スラヴ系特有の東洋との同一性を保持』し、『本質的に農村』と評される。音楽についても、ボヘミアの音楽が『単純な和声と規則的なリズムのパターンと調的構造』『厳格で規則正しい拍子』を有するのに対し、モラヴィア、とくにスロバキアに近い東部の音楽は規則性がなく、自由な旋律によって構成される。また、ボヘミアの音楽には長調のものが多く、モラヴィアの音楽には短調のものが多い。
ヤナーチェクは、スメタナの音楽のボヘミア風を、西欧音楽・ドイツ音楽に傾斜したものとみなし、『モラヴィアの伝統文化こそが、西スラヴ民族であるチェコ人の音楽を象徴するものである』と考えた。
モラヴィア出身の音楽学者ヴィスロウジルは、西洋音楽の枠にとらわれなかったヤナーチェクこそ、『真のスラブ民族の音楽を樹立しようとした人物』であったと述べている。」
⇒:Wiki:「レオシュ・ヤナーチェク」一部改
以下、ヤナーチェクのオペラ作品から、ごくサワリの部分を見ておきます:
ヤナーチェク『オペラ 狡猾な女仔狐』から
サイモン・ラトル/指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヤナーチェク『オペラ 死の家から』トレイラー
ロベルト・インドラ/指揮
プラハ国民劇場オペラ
スキーの休憩
高い斜面を滑り降りようとして、
わたしは一時(いっとき)ストックを握り立ち止まる
見わたすかぎりの青と白のかがやきで
なにも見えない銀世界、
見あげればたたなずく沈黙の稜線
凍りついた孤高;
眼下は眩(まばゆ)さのなかへ
谷から谷へとつらぬいて消える路すじ。
わたしは暫(しば)し息を呑んで立ち止まり、
静寂と寂寥(せきりょう)に圧倒されていた、
やがて谷に向って息もつかせぬ速さで
その垂直な壁を滑走する。
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