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       運の悪い晩

 彼らはわたしを晩餐に招いたが、
 わたしはきょうそんな気分ではなかった、
 二日酔いと頭痛がひどかったのだ、
 加えていつものこむら返りの痛み、
 ろくなことにならない予感がした。
 それからこの人たちが壁にかけている
 愚劣な絵画のかずかず、
 ゲーテやらその他もろもろの芸術物件、
 しまいに誰やらがピアノまで弾いて
 力のこもった遠慮のない音を聞かせてくれた、
 ひとことで言って、この生憎
(あいにく) の由緒あるお宅では
 もうひとときもじっとしていられなくなった。
 わたしは主婦に向って暴言を吐き
 食事が終るや否や不躾
(ぶしつけ)にも退散したのだった、
 彼らは、まことに残念ですと言ったが、
 見るからに体
(てい)をつくろった嘘だった。
 わたしは悲しい気分で引き下がり、
 どこやらで若い女の子を買おうと思った、
 ピアノを弾いたり芸術に興味をもったりしない少女を。
 しかしそんな女は見つからずまた酒に溺れはじめた、
 俺はもうきっぱりと酒を断つ、
 そう大言壮語したばかりだというのに。
 おい、おまえら誰でもこう惨めったらしく孤独なのかい、
 それとも俺だけがこの結構な世の中で
 独りぼっちで荒れ狂って悲しんでなくちゃいけないのか?
 おまえら人間ども、何がおもしろくて晩飯
(ばんめし)に招待なんぞし合うんだ?
 何がよくてあんな我楽多を壁に掛けたりするんだ?
 どうしてこんな、誰にも喜びを与えない
 犬みたいな生活をしているんだ?
 なぜさっさと気高い結末をつけようとはしないで、
 ぐずぐずピアノを弾いたりトーマス・マンの話をしたりするのか?
 わたしには理解しがたいことだ、
 こんなにコニャックを飲むのは健康じゃないさ、
 身体
(からだ)をすっかりだめにしてしまう、
 しかし身を亡ぼすほうが、君らよりも気高くはないかね?




 

シベリウス『組曲 ベルシャザールの饗宴』から
第1曲 東洋風の行進
レイフ・セーゲルスタム/指揮
ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団

 


 前回は『荒野の狼』でしたが、

 前回分をうぷしたあとで、いつものヘッセ詩集をめくっていたら、この小説に関連ありそな詩が2,3あったので、続篇を書くことにしました。上に訳したのが、そのひとつ。

 『荒野の狼』《あらすじ》から、関連箇所を引いておきませう

 

 ちなみに、前回からのあいだに、この小説を読んでみたかたもいらっしゃいますかしら? いま、新本となると、高橋健二訳の新潮文庫くらいしかないんですな。ちょうど端境期なんでしょう。高橋先生のヘッセも、『クヌルプ』などは、手慣れたすばらしい訳なんですが、この『荒野の狼』あたりまで来ると、どうも訳文が危なっかしくなってきます。ヘッセも後期になると、内容が哲学的というか、難しくなるんでしょうね。といって、わたくしめも、原書を完読してはおりません。。。 光文社文庫から新訳が出るのを心待ちにするばかりです。


『市民的な生活に馴染もうとする自分と、その生活を破壊しようとするおおかみ的な自分。二つの魂を持つハリーは、自刹を逃げ道にしておき、それによって、かろうじて精神の均衡を保っている。そして、そういう自分は「荒野のおおかみ」なのだと考えていた。

 ある日、彼を夕食に招いてくれた「教授」の家で、ハリーは、市民的に当たり障りなく描かれたゲーテの肖像画を見て、うちのめされる。「教授」は、「ハラー」という、ハリーと同名の反戦作家をこき下ろした新聞記事を見せて、軽蔑と憤りを露わにする。(じつは、新聞で槍玉に挙げられているのはハリー・ハラー自身であり、教授はそのことを知らない、という状況が言外に暗示されている。)

 ハリーは、“市民世界”の中で生きる希望を失い、街をさまよい歩いたすえ、えたいの知れない場末の居酒屋に入りこんでしまう。そこは、麻薬と娼婦が充満し、乱痴気騒ぎにあふれかえった場所だった。

 ハリーは、そこで娼婦の少女ヘルミーネと知り合ってジャズ・ダンスを教えられ、彼女に紹介された官能的なマリアとセックスをするが、ハリーは、精神的な少女ヘルミーネに、より大きな関心をもっている。そのあと、ハリーは、ヘルミーネが、楽団のサキソフォン吹きパブロと寄り添って昏睡しているのを目撃する。二人は全裸で倒れており、見るからに濃厚なセックスの後だった。

 パブロは、ハリーを「魔術劇場」に導き、彼の前にモーツァルトの姿で現れる。……』

  《あらすじ》全体は⇒:こちらで。


「私は教授の家の前に一瞬立ち止まって、窓を見上げた。そして考えた。ここにあの人は住み、年年歳歳研究を続け、原典を読んだり注釈を付けたりし、近東とインドの神話との関連を調べ、それで満足している。それというのも、彼は自分の行為の価値を信じ、自分の奉仕している科学を信じ、ただの蓄積と知識の価値を信じ、進歩発展の価値を信じているからである。彼は世間と戦争の体験を共有しなかった。アインシュタインによって従来の考え方が揺さぶられる体験を共有しなかった(それは数学者にだけ関係することだと、彼は思っている)。自分のまわりで、次の戦争がどのように準備されているか、彼は全く気づかない。ユダヤ人と共産主義者は憎むべき輩だと思っている。善良な、思想のない、満足し、うぬぼれた子供である。じつに羨ましい存在だ。

 私はやっと意を決して中に入り、白い前掛けをした女中に迎えられた。
〔…〕私は暖かくて明るい部屋に通され、お待ちくださいと言われた。〔…〕いたずら半分に、私は眼に止まった手近な品を手に取った。丸テーブルの上にある小さな額に入った肖像画で、〔…〕詩人ゲーテを描いた銅版画だった。〔…〕画家は、この魔神的老詩人に、その深みを損なわずに、自制と実直さのある・やや教授風の、というより役者ばりの表情をさせることに成功していた。要するに、どんな市民の家にも飾っておけるような、まったく素敵な老紳士にゲーテを拵(こしら)えあげていたのである。〔…〕

 それでなくても十分いらいらし、むかむかしていた私に向って、老ゲーテの空疎でいい気な・この肖像画は、たちまちやりきれない不協和音となって喚(わめ)きちらしてきた。ここはおまえの来るところではないと、私に告げていた。この家は、美しく様式化された老巨匠や国民的偉人が居座るにふさわしく、荒野の狼にはふさわしくなかった。

 
〔…〕教授が入って来ると、〔…〕教授は手に新聞を持っていた。軍国主義者と戦争扇動党の機関紙〔ナチス党中央機関紙『民族の監視人(Völkischer Beobachter)』(1920-1945)か――ギトン注〕、月ぎめで購読しているのだった。彼は私と握手してから新聞を指さし、そこに私と同名のジャーナリスト、ハラーのことが出ていると言った。こいつは悪党で、祖国の裏切り者に間違いない。皇帝を笑い草にしたうえ、敵国に劣らず祖国にも開戦の責任があるなどと表明している。なんてやつだ! 見ろ、こいつめ、ここで、こっぴどくやっつけられてるぞ。編集部が、ゴキブリ野郎を綺麗さっぱり片づけて、晒してらあ。そう言うのだった。」

ヘッセ『荒野の狼』,高橋健二訳,新潮文庫,pp.122-125(一部改訳).




 さて、前回の続篇ということですから、“草原音楽”を続けましょう。「ベルシャザール」は、バビロニアの王子ですが、ユダヤから奪った戦利品の杯や食器で宴会を開いていた時、突然宙から手が現れて、壁に謎の文字を書きつけます。ユダヤ人ダニエルは、それを解読して、バビロニアはまもなく滅びると予言します。はたして、その翌日、ペルシャの軍勢が襲って、バビロンは灰燼に帰したのです。

 

  この「ベルシャザールの饗宴」は、『旧約聖書』「ダニエル書」に書かれている話で、ベルシャザールというバビロニアの王族が実在したことも、考古学によって判明しています。

 

シベリウス『組曲 ベルシャザールの饗宴』から
第4曲 カドラの踊り
ピエタリ・インキネン/指揮
ニュージーランド交響楽団

 

 



 

 


 後半は、“ディープな草原”。ガチなモンゴル民謡を聴いてみたいと思いますw

 バネをはじいているような楽器の音も変っていますが、バスの発声法が特別です。低音の裏声? ヨーデルの逆ですね。喉が悪いわけじゃないんです。モンゴル民謡は、こういう発声で歌うのです。

 ちなみに、モンゴルの宗教はラマ教(チベット仏教)です。シャーマンの扮装や、聖所の装飾が、チベットと似ていますね(頭の被り物などは、日本の東北の鹿踊りや剣舞[けんばい]にも似ています)。シャーマンも、ラマ教と習合しているのでしょう。日本でいえば、修験道(山伏)です。

 狼も出てきます。モンゴルでも日本でも、オオカミは昔から神様だったのでしょうね。


 

『シャーマンの巫歌』
モンゴル民謡
フスグトゥン・バンド

 


 ↓次の歌のクレジットは、モンゴル語なので全然わかりません。オンライン辞書を使って無理やり日本語にしましたが、どこまで合っているやら間違ってるやら不明であります。歌い手の手振りを見ると、どうやら水鳥の歌だということだけは、まちがえなさそうですね。

 

『幸せの青い宝石』(ペリカンの歌)
モンゴル民謡
ジュライ・ゲルデン

 


 さて、きょうのお別れの詩も、小説『荒野の狼』の関連詩。冒頭の詩と同じ日かどうかはわかりませんが、悪運にみまわれた宵のあとで、いきなりやってくる僥倖。パブロとヘルミーネに「魔術劇場」へ誘われる夢幻妄想も、原体験は、こんなものではなかったでしょうか?



          愉快な夜

 ふさぎこんで、眠れずに横たわっているのは辛
(しん)どいことだ
 羽根という羽根が地に向って垂れている時には。
 愛に落ちて、眠れずに横たわっているのはすてきなことだ、
 憧れの泉という泉が噴き上がってゆく時には。
 夜の居酒屋から、幻滅して淋しく、ぼくは去って行こうとした、
 ウイスキーの金を払い、惨めったらしくずらかろうとした、
 そのとき階段の途中でわたしは魔に憑かれて立ちどまり、
 すぐさま、この夜を始めからやりなおす気になった。

 ギゼラが来た、ファニーが来た、ちょうど上で
 バンドが上機嫌なワンステップを弾きはじめた
 おおなんと速くて楽しい飛ぶようなリズムが走ったことだろう!
 ぼくらはみな跳びあがり、駆け回って踊り、燃え上がった。

 いまはもう白みゆく朝のなかでぼくはベットに横たわっている、
 ギゼラの匂いが咲きひらいた花のように胸いっぱい浸み通っている、
 シミ―
(※)を口ずさみ、ファニーに感謝し、
 この夜をまた始めからやりなおすのにまったく異議はない。

  
註(※) 肩を揺するアメリカのラグタイム・ダンス。


 

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