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ドゥルーズ『スピノザ――実践の哲学』(2)―――
―――意識と存在、本質と生存、理念と現実の生
ドゥルーズのスピノザ論を読む、第2回。
『スピノザの哲学が思想史上の〈異物〉(Fremdkörper)であるという認識は、レーヴィットやハイデガーをはじめとして多くの論者から、これまで繰り返し示されてきました。
しかし、20世紀後半以降、ドゥルーズ、ネグリ、アルチュセール、バリバール、マトゥロンらの精力的な努力によって、世界的にその現代的意義の見直しが進められています。
スピノザは、『エチカ』を含めた政治的諸著作において、ミクロポリティックな権力の支配に抵抗する能動的な〈生〉のネットワーク形成の手がかりを示しています。目的論的な規範性を除いた地点で、なお構想し得る社会性・共同性のあり方を示唆するスピノザの主張には、いまだ耳を傾けるべき点が多いと言えます。
スピノザの思考の根幹にあるのは、例えば「無媒介性」(あるいは弁証法/目的論の拒否)、「外部なき思考」(あるいは内在性)、「力」(あるいは力能/能力)、そして「触発」(変様)といった概念――これらはどれもひとつの主題の変奏にほかなりません――などです。確固とした輪郭と実質を持つと想定されている概念が、実は様々な諸力の組み合わせを通して構成される暫定的な構築物のひとつに過ぎないという認識も、当然そこに含まれます。』(浅野俊哉: 『スピノザ 〈触発の思考〉』の世界)
スピノザは―――したがってまたドゥルーズも―――あらゆる概念は過渡的なものだと考えているのです。概念が――より広くいえばあらゆる観念が――流動的で過渡的なのは、観念の世界と1対1対応している物体の世界が流動しているからにほかなりません。
スピノザによれば、人間の意識もまたつねに過渡的であり、人間をはじめとするさまざまな諸力のせめぎあいのなかで発生し刻まれる痕跡にすぎません。
『スピノザが見ていたのは次のような世界のありようです。何かと何かが出会い、そこに前と異なる状態が現出します。出会う対象は、人同士だけでなく、ものや情報、思想やイメージでもよいし、何らかの情動、欲望、あるいは力――権力であれ影響力であれ――でも構いません。
世界とは、それらが遭遇し、反発し合ったり、時にひとつに合わさって新たな存在や力を創出したりしながら、絶えず変化を続けて止まない生成の過程以外のものではありません。ある変化が別の変化を生み、それらが凝集してひとつの大きな力を作り出すこともあれば、出会いによってひとつの関係性が解体され、ある部分が細かな捉えられない流れとなってシステムから漏出し、新たな変異を形作ることもあります。それらの一切が、様態というひとつの同じ平面上で生起するのです。
このような諸力の渦巻く場に起こる出来事のありようを、スピノザは触発=変様(アフェクチオ)と呼びました。』(浅野俊哉: 『スピノザ 〈触発の思考〉』の世界)
今回は、ドゥルーズの議論に沿って、スピノザの〈触発〉の論理を、やや詳しく追いかけてみました。“くどいぞ!”と言われてしまうくらい、同じ〈触発〉の論理――別の言い方をすれば、「構成関係」の論理――が、くりかえしくりかえし、さまざまな変奏をかなでつつ現れてきます。
それというのも、次回に扱うスピノザの《共同社会論》《国家論》‥すなわちドゥルーズのミクロポリティックな《権力》論のための、これは周到な序曲にほかならないからです。