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ピーテル・ブリューゲル(父)『ガリラヤ湖のキリストと使徒たち』(1553年)

 

 



 数日間“魔女狩り旋風”が吹き荒れたあとで、ようやく大西擁護論が広がってきました。

 

 ↓こちらも、よく熟考された意見で、参照の価値あり⇒大西つねき氏の発言が何だったのか考える

 

 


 私の考えは、すでに1つ前の記事に書いたように: 崇拝するほどの人ではないが、ほかの政党の一部にいるクズな人びとよりは、よほどまし、というものです。

 経済分野で、すぐれた実務経験をお持ちの方であることは承知していますが、それを超えて、広すぎる領域で、ばくぜんとした見解を展開する傾向は、以前からおありでした。とはいえ、信じこんだりしないで、受け入れがたい点は眉にツバつけて聞き流せばすむことです。目くじらを立てるようなものではありません。

 ↑2つのリンク先で言われているように、今回の発言にも、考えさせるヒントになる有益な部分はあります。一定の思想を唱道する言説ではなく、考えさせるための問題提起であることは、大西氏自身が発言の中で明らかにしています。《れいわ》の人たちは、自称「市民」なる運動屋の無責任な“魔女狩り旋風”には、安易に迎合しないよう祈るばかりです。
大西氏を神さまのように喧伝していた人たち(の一部)が、悪魔を断罪するように口汚くののしる姿は、まったく見るにたえません。

 除名」だの除籍」だの、煽情的で中身のないコトバを軽々しく口にする傾向が続くならば、「大西発言」どころではない危険な兆候です。「除名では解決しない。危険な思想を野放しにすることはできない。」などという独善的発言は、反対意見をウイルスとみなすに等しい。「大西発言」などより、はるかに危険であると考えます。なによりも、政党としての発展に必要な、異見との相互討論による高めあい、熟考寛容柔軟さが失われます。有権者の信用も地に落ちるでしょう。