先の記事の続きになります。

 

 

 

 

とにかく、兄の死は

家ウチの一家を ズタズタに打ちのめして

見事に崩壊してくれました。

残された老親、巨額の負債、裁判…

何から何まで想像を絶する問題を突然抱えることになって、

当時 自分はどうやって生きてたのだろうかと今でも不思議です。

でも あの夏のとてつもなく重大なこの事件は

まるで どす黒い血の塊がこびりついているような感じで、

思い出すと苦しくなるのです。

 

成人して社会的に責任ある立場の人間の自死は、

若者のそれとは明らかに違います。

ブログを始めて、いろいろな記事を読ませていただくようになって、

それぞれのケースはみんな違うということ、

そして 其々を同じ『自死遺族』という枠でくくり切れないことを強く感じています。

 

私の場合、兄の死によってもたらされた衝撃的な問題は大きすぎて、

どんなに時間が経ってもとても消化できる状態にありません。

そして残された多くの問題は 解決できぬままのものもあって、

それは私が一生背負うことになっています。

ただ普段はそんなことを忘れられていても、

何かの時にモヤモヤが疼き出して、辛くなります。

でもよくよく考えれば、それって 恨みの感情かなと思いました。

結局、散々 大口を叩いていた本人が、

いざとなったら逃げていなくなってしまった。

残された人間がその汚物処理をしている。なんで?、と。

そして今度はまた思うのです。

年とった母に対して 恨みの中で生きているのはよくないと言ってる自分が

結局 恨みの中にいるんじゃないか、って。

 

この記事書きながら、

何度も消したり、中断したり…

なぜか涙が出るのです。

家族だったから、兄弟だったから、

だから、

『なぜ そんなことしちゃったの?』という感情が湧き出てくるんでしょう。

だから、 恨みとは言ったけれど、

それだけじゃない愛がやっぱりあるんでしょうか。

 

兄の命日は、そんなわけで、

たしかに 『はっきり知らない』のもあるのですが、

自分はその日を見たくないので、

目を背けたままにしているのです。

我が家にはだから、6月にはそのお花が飾られないのです。