周泰の生涯と最期の死因を解説!孫権と傷に関するかっこいいエピソードも

三国志

三国志に登場する孫呉の武将:周泰について解説していきます!

生涯にわたり、孫呉の武将として活躍し名を残した武将が今回ご紹介する周泰です。

主君である孫権も一目置く存在だったという猛将ですが、その生涯と最期がどうなったのかまで知る人は少ないかと思います。

そこで今回は、周泰の生涯を最期までを時系列で解説し、様々なエピソードも併せてご紹介していくことにしましょう!

周泰の生涯と最期の死因を解説!

主君のために命を懸けて戦い続けた武将として有名なのが、今回ご紹介する周泰です。

戦場での派手な戦果を挙げた記録はあまり残されていませんが、それ以上に主君の命を救ったというエピソードが多いことで知られる武将ですね。

縁の下の力持ち的存在として活躍してきた周泰ですが、その生涯は一体どんなものだったのでしょうか?

早速、周泰の最期までを時系列でご紹介していきたいと思います。

孫策への仕官~孫権の部下に

周泰の生年月日はハッキリと記録に残っていませんが、その名前が登場したのは196年頃に孫策の配下になったころになります。

同じく、孫呉の武将としてその後長きにわたり活躍した蒋欽とともに、孫策の軍門に加わったことが描かれています。

三国志演義では江東の地で蒋欽や弟の周平(架空の人物)とともに暴れていた江賊として描かれ、孫策の勇名を聞き、今までの行動を悔い改め傘下に入ったという設定となっていました。

 

孫策に仕官した周泰は、孫策の弟であり、後の主君となる孫権に気に入られ、彼の配下となります。

197年、孫策が独立した際にいざこざのあった袁術の働きかけで起こった、山越の族による反乱で孫権軍はまたたくまに敵に包囲されてしまいました。

孫権も命を狙われ非常に危ない状況となりましたが、周泰は味方を鼓舞しつつ、自らも全身に12ヶ所もの傷を負いながらもこれを救出したのです。

周泰自身も非常に危うい状態に陥ったのですが、何とか一命をとりとめたことで孫策たちの評価が上がり、晴れて県長に任命されたのでした。

赤壁の戦い~各地を転戦

その後、孫策が早逝してから孫権の代になってからは、各地で起こった戦争に参加する日々を送ることになります。

孫権の父:孫堅の仇でもある黄祖討伐を目的とした江夏の戦や、三国志の中で最大規模の決戦と言われた赤壁の戦いにも参加し、それぞれ武功を挙げました。

217年に曹操が再び南下し濡須の地に迫った際の戦いでは、見事に曹操軍を撃退する働きを見せたのです。

この戦いを経て周泰は平虜将軍に就任し、濡須督として武名を挙げたのでした。

夷陵の戦い~最期

かねてから荊州を巡る劉備との確執が目に見える形となった、荊州の関羽攻め後には蜀漢の入り口とも言える要所:漢中の太守に任命された周泰。

関羽を討ち取られたことに激怒した劉備が引き起こした夷陵の戦いの後には、再び濡須の守備に就き、隙を突いて侵攻してきた魏軍を撃退する活躍を見せました。

その後、222年~229年の間に周泰が亡くなったという記録が残っていますが、詳しい死因やハッキリとした没年は不明です。

しかし一説には、223年に同じ呉の武将である朱桓が、周泰が守っていた濡須を守り、周泰の最後の官位である奮威将軍の称号を得ていたことから、223年が没年では無いかと言われています。

孫権と傷に関するかっこいいエピソード

ここまで呉の武将:周泰の生涯についてご紹介してきました。

周泰のエピソードとして有名なのは、やはり孫権を救った傷に関するエピソードではないでしょうか。

そんなかっこいいエピソードについて、より詳しくご紹介していきたいと思います。

身を挺して孫権を守った

正史にも残っている周泰に関する傷の記述は、上記でも紹介しました山越での戦いについてのエピソードが挙げられます。

12ヶ所の傷を負い命も危うい状態になったにも関わらず、身を挺して孫権を守ったことは、武将としての使命を果たしたと言える働きぶりと言えるでしょう。

また、三国志演義では217年の濡須口の戦いでまたもや孫権を窮地から救う活躍が描かれています。

傷だらけになりながらも、孫権や同僚武将の徐盛を救うという活躍に、孫権は深く周泰に感謝するのでした。

同僚武将を黙らせた傷の話

さらに、正史では濡須口の戦いの当初、濡須督になったばかりの周泰に対して、徐盛や朱然ら同僚武将は誰一人として周泰の命令に従うことがなかったそうです。

その様子を見た孫権は急遽酒宴を開き、その席上で周泰の体に刻まれた歴戦の傷を見せました。

かつて、自身の窮地を救うためについた傷の由来を涙ながらに語った孫権は、周泰のことを「幼平」と字で呼び、これまでの働きぶりに対する表彰を行ったのです。

孫権の態度や周泰の功績を目の当たりにした同僚武将は、この件で心を入れ替え、周泰の命令に従うようになったと言われています。

三国志演義では一騎打ちに強い武将として描かれた

上記のように正史に残る活躍でも功績を残した周泰ですが、三国志演義では数々の戦いで一騎打ちを繰り広げた武将としても描かれています。

南郡の戦いでは曹仁を相手に一騎打ちを繰り広げ、曹操軍を撤退に追い込む活躍を見せました。

また、濡須口の戦いでは曹操を守る豪傑:許褚と一騎打ちで引き分ける実力を見せ、武将としての名を上げています。

夷陵の戦いでも甘寧の仇と言える武将:沙摩柯を一騎討ちで討ち取っており、一騎打ちに強い武将というイメージを抱きやすい存在として登場していたのです。

まとめ:周泰の強さは傷の多さにあった!

今回は三国志に登場する武将:周泰についてご紹介してきました。

孫権を幾度となく救った際にできた傷の数が、その強さを物語っていると言っても過言ではありません。

三国志演義での見せ場も、周泰の活躍を彩るものとして描かれましたね。

孫呉の歴史を語るうえで外せない武将として、これからも語り継がれていくことでしょう。


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