古代日本の歴史を謎解き

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隋書から見える当時(600年頃)の日本

2020-03-29 11:49:10 | 歴史
隋書の冒頭の部分は
後漢書や魏志倭人伝を参考にしたのでしょう。
同じような事が記載されています。
・倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。
・魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国
・夷人(倭人)は里数を知らない。ただ日を以って計算している。
・その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。
魏志倭人伝では
めぐりまわると5千里、東に海があり船で1日倭人の住む島がある。
九州と四国との関係と思われますが
東西は五ヶ月行はかなり長く感じられますし、東の果ての海とは??
瀬戸内海の航路もありますので5か月の情報はいつの時代なのか?
長崎~博多湾~北九州~大分~宮崎 が5か月
博多湾~有明海側を南下~鹿児島  が3か月?

・邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。
・古には、楽浪郡境(後漢書、この頃帯方郡は存在しない)及び帯方郡(魏志)から一万二千里離れ
・會稽(郡)の東にあり、儋耳に近いと言われていた。
隋の時代には邪馬臺(ヤバタイ)は存在していない様な書き方です。

以下が隋の時代の出来事です
600年
・倭王の姓”アマ”、字”タリシホコ”。号”アハケミ”が遣使して宮中にやって来た。
・お上(高祖)は所司(担当官)に命令して、その風俗を訪ねさせた。
・使者は”倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。
・日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねようといいます。”
アマ・タリシホコ・アハケミ = 聖徳太子 の様です。
・内官(中央官僚)には十二等級がある。
・隋代に至って、その王は始めて冠を制度化し、
・錦や模様のある布でこれを作り、金、銀の花模様を散りばめて飾りとしている。
大分、身なりや宝飾も変わったようです。
菌の冠などは朝鮮半島の文化が古墳時代に伝わったのでしょう。
・仏法を敬い、百済に仏典を求めて手に入れ、始めて文字を知ったのである。
・阿蘇山がある。その石は理由もなく火がおこり天にとどく。人々はわけのわからないことだとして、祈って祭る。
ちゃんと阿蘇山と云う名前が出ています。
607年
タリシホコ(聖徳太子)は使者を派遣し朝貢した。
・使者は
 『海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶため来ました。』
・その国書にいう。
『日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子に届けます。お変わりありませんか。云々』 
帝(煬帝)はこれを見て喜ばず、鴻臚卿に『蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな』と言った。」
まさに聖徳太子が小野妹子に託した
「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」 で始まる国書です。
608年
・煬帝は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。
・百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東のイキ国へ至る。
・またチクシ(竹斯)国へ至り
・また東の秦王国に至る。
・その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。
・また十余国を経て海岸に到達する。チクシ国以東はみな倭に付属している。
漢字は違いますが伊都国・奴国が筑紫になっています。
この時代も筑紫が窓口で、その東は良くわからない??
東へ十余国を経て 海なのか?
南へ十余国を経て 海なのか?
筑紫~安芸~吉備~難波~大和~伊勢までに10の国??
610年にも遣使を派遣しているようです。
ここで不思議と思うところは・・・
大和(ヤマト)と国名が出てきていません。
聖徳太子様
我が国は
倭国を改め
「大和と書き、ヤマトと読む」
と伝えてほしかったです。
その大和の場所も詳しく紹介してほしかった。
「日出る処の天子・・」の国書を渡すと怒りを買う事を知り
あえて、大和の場所は伏せたのでしょうか?
小野妹子らは、その内容を知って渡したのでしょうか?
命がけですね。
小野妹子 は大陸では
蘇因高と表記されたようです。
苗字は 和邇 =>蘇
名前の 妹子 =>因高(インコー??)
と名乗ったようです。
まあ、無事に帰ってこれたようですが
怒り狂った返事を聖徳太子に渡す時の気持ちは??
次の旧唐書を読めば少しわかります。

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