投馬国 水行二十日の謎 では、
水行20日は 大陸の帆船で10日、倭国の手漕ぎ船で10日なので
奴国からさほど遠くないと、ちょっと無理やりの理屈を考えてみました。
もう一つ、理屈に合わないのが
邪馬台国 水行10日陸行1月 も同じです。
否定地不明ですが 邪馬台国 水行10日陸行1月 一万二千里 と日数と距離で表記
糸島半島の 伊都国まで一万五百里であり、末盧国までの水行10日と陸行5日 でしょう。
わずか、1500里に25日ほどかかるわけですから。
過去の投稿では、松浦半島、或いは宗像半島へ水行10日で到着
背振山など山道の難路を歩いて倭国の南側にある邪馬台国へ着いたので、日数もかかった。
と考えてみました。
今回は、同じ史記の短い文書の中で、何故、この様な矛盾が生まれる文書になってしまったのか。
陳寿が書いたとされる魏志倭人伝ですが、「後漢書」など他の史記も参考にしています。
「漢委奴国王」の金印を贈られた時代に漢の役人が実際に知りえた情報は伊都国+奴国+不弥国 までです。
残りの国々については、交易などの中で倭人からの情報です。
倭国大乱で100余国が30国にまとまりますので、当時では
玄界灘国々南側に100国ほど国があるという程度でしょう。
この時代に、5万戸の投馬国、7万戸の邪馬台国の存在はしりません。
もし知っていれば、金印は奴国ではなく、より大きい投馬国、邪馬台国に贈られたはずです。
大陸「魏」が邪馬台国の存在を知ったのは、
238年(或いは239年)6月に難升米が帯方群に到着、朝献するを求めて洛陽に呼ばれる。
邪馬台国の情報は、難升米が伝えたものでしょう。
難升米は倭人ですが、大陸の言葉も話せた事になります。
難升米は一大卒と同じ漢の役人だったのか、一大卒に仕えたいた倭人だったのか。
水行20日は 大陸の帆船で10日、倭国の手漕ぎ船で10日なので
奴国からさほど遠くないと、ちょっと無理やりの理屈を考えてみました。
もう一つ、理屈に合わないのが
邪馬台国 水行10日陸行1月 も同じです。
否定地不明ですが 邪馬台国 水行10日陸行1月 一万二千里 と日数と距離で表記
糸島半島の 伊都国まで一万五百里であり、末盧国までの水行10日と陸行5日 でしょう。
わずか、1500里に25日ほどかかるわけですから。
過去の投稿では、松浦半島、或いは宗像半島へ水行10日で到着
背振山など山道の難路を歩いて倭国の南側にある邪馬台国へ着いたので、日数もかかった。
と考えてみました。
今回は、同じ史記の短い文書の中で、何故、この様な矛盾が生まれる文書になってしまったのか。
陳寿が書いたとされる魏志倭人伝ですが、「後漢書」など他の史記も参考にしています。
「漢委奴国王」の金印を贈られた時代に漢の役人が実際に知りえた情報は伊都国+奴国+不弥国 までです。
残りの国々については、交易などの中で倭人からの情報です。
倭国大乱で100余国が30国にまとまりますので、当時では
玄界灘国々南側に100国ほど国があるという程度でしょう。
この時代に、5万戸の投馬国、7万戸の邪馬台国の存在はしりません。
もし知っていれば、金印は奴国ではなく、より大きい投馬国、邪馬台国に贈られたはずです。
大陸「魏」が邪馬台国の存在を知ったのは、
238年(或いは239年)6月に難升米が帯方群に到着、朝献するを求めて洛陽に呼ばれる。
邪馬台国の情報は、難升米が伝えたものでしょう。
難升米は倭人ですが、大陸の言葉も話せた事になります。
難升米は一大卒と同じ漢の役人だったのか、一大卒に仕えたいた倭人だったのか。