邪馬台国を否定するのに
古代の 1里は 何mだったのか?
約50m程、いや100mの時代もあった・・・
と議論されています。
そもそも必要はないです。
実際に
狗邪韓国から対馬国~一支国を経由して末盧国まで
各1000里で合計3000千里
実際に地図を見てみましょう。
対馬も壱岐もちょうど三分の一の場所にはありません。
もし、精度よく距離を計測していたのであれば
対馬国まで1300里
末盧国まで 700里などと端数の表記があるはずです。
水行は1000里の単位しかありません。
陸行でも同じで
伊都国まで500里
奴国、不弥国まで100里の単位しかありません。
当時、幾度も交易で行き来があったでしょうが
正確に測量するまでには至っていません。
交易に必要な情報は日数です。
当時の移動方法で船で移動する場合
一日に1000里程移動できた。
陸行の場合は
100里程しか移動できなかった。
距離の情報は、日数から逆残した結果です。
つまり
・帯方郡から末盧国まで水行10日(約10000里)
・末盧国から伊都国まで陸行 5日(約 500里)である。
と云う事です。
古代の 1里は 何mだったのか?
約50m程、いや100mの時代もあった・・・
と議論されています。
そもそも必要はないです。
実際に
狗邪韓国から対馬国~一支国を経由して末盧国まで
各1000里で合計3000千里
実際に地図を見てみましょう。
対馬も壱岐もちょうど三分の一の場所にはありません。
もし、精度よく距離を計測していたのであれば
対馬国まで1300里
末盧国まで 700里などと端数の表記があるはずです。
水行は1000里の単位しかありません。
陸行でも同じで
伊都国まで500里
奴国、不弥国まで100里の単位しかありません。
当時、幾度も交易で行き来があったでしょうが
正確に測量するまでには至っていません。
交易に必要な情報は日数です。
当時の移動方法で船で移動する場合
一日に1000里程移動できた。
陸行の場合は
100里程しか移動できなかった。
距離の情報は、日数から逆残した結果です。
つまり
・帯方郡から末盧国まで水行10日(約10000里)
・末盧国から伊都国まで陸行 5日(約 500里)である。
と云う事です。