古代日本の歴史を謎解き

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台与は結婚した。

2020-01-17 15:50:55 | 歴史
さて
弥生時代終焉後の邪馬台国
の続きです。

卑弥呼は女王になる時
既に 高齢です。
婢千人と暮らし、人前には出てこない。
環濠集落内の館の中で生活していたのでしょう。
70年ほど女王を務めていますが
一人では無理でしょう。
やはり 女王 卑弥呼複数説 になります。

長らく続いた祈祷師卑弥呼の祈祷政治でしたが
二年連続で発生した皆既日食を避けることはできませんでした。
卑弥呼の祈祷に対する信仰が失われ
卑弥呼政治を終了させたのが、卑弥呼の死 と云う表現です。
しかし、国はまとまらず
大陸から来ていた張政らの指導のもと、新しい国づくりが始まりますが
卑弥呼の影響力は大きく、卑弥呼の宗女であった台与を代表にしました。
しかし祈祷による政治は力を失っています。
大陸の張政らが考える国でもありません。
張政らの提案は
・邪馬台国の台与 と 倭国の国王と結婚
・血縁関係で連合を強める体制
です。
13歳の未婚の女性(現在で云えば巫女)の台与
他国の王と結婚させて
・国同士の争いを失くす
・卑弥呼の遺志を継ぐ
・邪馬台国の存続を願う
魏の国から女王に認められた邪馬台国の卑弥呼です。
張政らも引き続き邪馬台国の継続を考えます。
しかし、祈祷師卑弥呼では国はまとまりません。
張政らの政策は
台与を筆頭に卑弥呼の宗女や宝物品を持って
有力な王の元へ嫁入りさせる事でした。

張政らが台与を嫁がせた国が 大和王権
邪馬台国(ヤマト国)の国名を引き継いでくれました。

卑弥呼の邪馬台国が九州であったならば
卑弥呼と暮らした婢千人
魏国から送られた鏡百枚など沢山の宝物品など
大規模な移動があったでしょう。
航路は瀬戸内海経由ですので
九州東部(大分)~山陽(安芸、吉備)~近畿(大和)の
連合が強くなったでしょう。
卑弥呼亡き後に力をつけたのが九州の筑紫
山陰の出雲が連合の影響が弱い国です。

神武東征のルートに関係あるはずです。

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