この日は吹田市の
※(すいた し)
阪急・豊津駅から西にある
「垂水」の町を散策しました。
※(たるみ)
スーパーで同じ名前のゼリーを
見かけたことがあると思い込んでたら
あれは「たらみ」だったよ。
自分を殴りたいです。
そんな垂水の町の北西側を
グイッと曲がってシャッと行った所に
石碑が2つ建っているのを発見。
『大きいなーこの石碑!』
『隣にも横長の石碑があるで』
『なんで石碑が集まってるんだろう?』
『さあ? この建物なんやろな?』
一緒に歩いてきた嫁のまーさんと一緒に
ひとまず建物を確認してみる。
建物は「吹田市立 豊一市民センター」。
小さなイベントや講座などを行っている
吹田市民の地域交流の施設らしい。
石碑の方へ戻る。
まずは気になる大きな石碑から。
「旌忠記念碑」
と石に力強く刻まれていた。
『ほうちゅう?』
『ぜんちゅう?』
『読めない』
『分からへんな…』
こちらは
「せいちゅう きねんひ」
と読むそうだ。
「旌忠」とは
国家に対する忠義を指す言葉で、
こちらの「旌忠記念碑」は
忠義を顕彰した石碑とのこと。
左側のくぼみにも
文字が刻まれていた。
「元帥」って
書いてあるようにも見えるけど
達筆過ぎて読めない……。
ちょっと狭いけど
裏側に回り込んでみる。
この記念碑は
明治39年10月に建立されたようだ。
アップで撮影。
「従軍者」として
大勢の方々の名前が刻まれていた。
詳細は出てきませんでしたが、
グーグルマップや他のサイトなどには
「日露戦争 旌忠記念碑」
と書いてあったため、
この「旌忠記念碑」は
明治37年(1904年)の日露戦争に従軍した
この地域の方々の功績を記した
石碑だと思われます。
正面に戻る。
改めて見ると
記念碑を支える石台も相当古いものだ。
明治時代からここに設置されてるのかな?
今度はお隣の石碑。
「大阪府豊能群豊津村役場跡
大阪府豊能群豊津村議会跡」
と刻まれている。
どうやらこの場所には昔、
豊能群豊津村の
※(とよのぐん とよつむら)
村役場と議会があったらしい。
再び裏側へ。
何か書いてある。
役場・議会の由来が刻まれていた。
昭和15年(1940年)に
豊津村・吹田町・岸部村・千里村の
一町三村が合併して
吹田市制が施行されるまで、
この地には
大阪府豊能群豊津村の
村役場と議会があった。
みたいなことが書いてある。
詳細は写真をご覧ください。
正面に戻ってくる。
豊津村が豊能郡に所属したのは
明治29年(1896年)のこと。
ということは、明治39年に建立された
隣の「旌忠記念碑」は
当時の村役場に建っていたんでしょうね。
ちなみに村が合併して吹田市となった後は
吹田町にあった役場が
そのまま市役所になったようです。
明治時代の町の歴史を伝える
「旌忠記念碑」と
「豊津村役場・議会跡の碑」。
「豊津村役場・議会跡の碑」。
近くを訪れたら
ぜひ眺めていってみてください。
※この記事の写真は2018年11月に撮影したものです。
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【「旌忠記念碑」と「豊津村役場・議会跡の碑」】
最寄り駅は
阪急千里線・豊津駅
コメント
コメント一覧 (2)
記念碑の左の文字は「元帥侯爵野津道貫」と書かれているのではないでしょうか。
恐らくこの記念碑を揮毫されたのではないかと推測されます。
野津道貫は薩摩藩士で日露戦争では陸軍第4軍司令官として従軍しているようです。
確か司馬遼太郎の坂の上の雲にも登場していたと思います。
詳しくはウィキペディアで。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%B4%A5%E9%81%93%E8%B2%AB
返信が遅くなってごめんなさい。
碑文の解読をしていただいてありがとうございます!
───「元帥侯爵野津道貫」
教えてもらうと、たしかにそんな感じに読めます!
陸軍司令官の方が揮毫された文字だったんですね。
詳細まで教えていただいてありがとうございます、本当に助かります。