社会福祉士コラム

【小説風事例紹介】看取り期をどう過ごす?Dさんのための気持ちの緩和ケア

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1.穏やかな特養のおばあちゃん

私が特別養護老人ホームで介護職兼相談職、そしてユニットリーダーをしていた時の話です。

 

その事業所は従来型の特別養護老人ホームで100床の定員でした。そして、ユニットが3ユニットに分かれており、1階ユニットと2階を2つに分けた2ユニットです。3ユニットに分かれている理由として、1階ユニットが約30床で比較的お元気なご利用者様や離施設のないご利用者様が多く入居していました。そして、2階の40床が離施設の可能性があるご利用者様や、ショートステイやロングショートの居室を受け入れるユニットがあり、私が担当していたのは残りの30床からなるユニットでした。そこは胃ろうの方や、感染症・看取りケアの方が多く含まれるユニットでした。

 

1階ユニットの入居されていたDさんという女性がいました。かつては、御夫婦で旅館を営んでおり、私の住んでいる地域では知らない人がいないほどの有名な旅館でした。御主人が亡くなられた後も、Dさんが一人で旅館を切り盛りされていたということでした。

 

しかし、Dさんはもともと糖尿病の既往歴があり、65歳の頃に合併症で左足第2指、第3指が壊死してしまいました。それを機に御長男様に旅館を譲ることにしました。代替わりして安堵していたのもつかの間、御長男様はその4年後に交通事故で亡くなってしまいました。

 

旅館は御長男様の奥様が引き継がれましたが、Dさんはその頃には認知症の発症と糖尿病の悪化から特養へ入所されていました。入所当初はまだ、自立で動かれることも多く、旅館のことが気になられ帰宅願望もありましたが、時間が経つにつれて施設での生活も安定するようになりました。その時には年齢は96歳になっていました。

 

Dさんは1階ユニットのご利用者様であるため、私とは普段の接点はほとんどありませんでした。

 

この事業所では、曜日ごとに車椅子のご利用者様が入るリフト浴と座位保持が困難な方や寝たきりの方が入浴される機械浴にわかれていました。

 

入浴される方はユニット関係なく、車椅子の男性、車椅子の女性などの区分で行われていました。入浴介助の担当者を各ユニットから数名ずつ出すことになっていたので、ユニットが違うDさんとは入浴介助が主な接点でした。

 

それまでは、ひと月に1度の全体の誕生日会や各行事の時に接する程度でしたが、携わるたびに1つ1つの介助に対して手を合わせて「ありがとね。ありがとね」と優しく話されるDさんが印象強く残っていました。

 

私が配属された頃のDさんは車椅子での入浴をされていましたが、足の壊死や下肢筋力の低下から立位の不安定がありました。私たちは一部介助を行い、衣服の着脱を行っていただいていました。Dさんは一部介助においても協力動作もしっかりと行ってくれていました。

 

また、壊死した指を人に見られることを恥ずかしがられ、靴下を履いたまま入浴を行われていたことから、最初の頃は靴下のご利用者様と覚えた記憶があります。

 

接点の少ない他ユニットのご利用者様でしたが、そんな優しく穏やかで特徴的なDさんの名前と顔を覚えるのに時間はかかりませんでした。

 

2.看取りの開始と看取りプラン

私が知る中では、従来型の特別養護老人ホームでの業務はどうしても作業優先になりがちです。多人数のご利用者様を相手に限られた人数で業務を回さなければならないからです。

 

私は多忙の中で、あまりDさんが入浴に来られなくなっていたことに気づかずにいました。他の職員から「最近Dさんお風呂に来ないね」と話されたことをきっかけに、1階フロアの介護職にDさんの様子を聞きました。

 

すると、Dさんは最近食事量の低下と排尿痛や排尿の中に出血が見られ、入浴を中止となっており、近日中に精密検査を受けるということでした。以前は、ゆっくりではあるものの一口大の常食を自力で摂取されていたとのことでしたが、その時には食事介助が必要となりミキサー食での対応になっていました。私はDさんが笑顔で入浴や行事に参加されていた姿しか印象になく、とても驚いたのを覚えています。

 

そして精密検査を受けられ、尿道線癌であることが分かりました。Dさんは96歳という年齢もあり延命治療の希望も御家族からなく、施設での看取りを希望されました。

 

看取り期を迎えられたことで、Dさんは2階の私たちが所属しているユニットに居室移動することになりました。

 

私たちはDさんの看取りプランを作成するために、生活歴を改めて見返しプランに反映できるものが何なのかを検討していました。また、御家族にも要望の聞き取りを行いましたが、聞き取りができたのは長男様の奥様と90歳をこえた弟様でした。奥様はDさんの若いころを知らないのは当然のこと、弟様からも要望を聞ける様子ではありませんでした。私たちはケアマネジャーや入所時のフェイスシートから情報を探していました。

 

その中に、御主人さまと旅館を経営していた頃に華道をされていた経歴を見つけました。私たちはその内容を長男様の奥様に伝えると、定期的に花を持って来てくれることになりました。

 

3.プランの実施とDさんの反応

Dさんのプランの実施を行うにあたって私たちは色々なリスクを考えました。ベッドをギャッジアップしての座位保持で、どの程度の時間ならばDさんの身体に負担がかからないか、抵抗力の低下が見られるDさんが食事を摂取されるオーバーテーブルで一輪挿しなどの生け花をして緑膿菌の感染にならないかなど、色々と話し合いました。

 

安全面や事後の消毒をしっかりと行うことでプランの実施することになりました。その頃のDさんは普段からきつそうな様子を見せることがありましたが、花を見るとパッと笑顔を見せ「かわいらしい」と小さな声で言いました。そして、自らの手をゆっくりと伸ばして来られました。

 

手に花を持ち嬉しそうな顔をしていたDさんに「お嫁さんがDさんに持って来てくれたんですよ」と伝えると、黙ってウンウンと頷き、花をしばらく見つめていました。

 

ひとしきり眺めた時点で「せっかくだからDさんが生けてみませんか」と伝え、一輪挿しを渡すと、嬉しそうに生け花を楽しんでいました。

 

そして終わった後に「ありがとね。ありがとね」と手を合わせ、涙を流していました。また、私たちは花を眺めて微笑んでいる姿や生け花をしている写真を撮影しました。花を届けてくれた長男様の奥様に見せるためでした。後日、奥様に渡すと奥様もとても喜ばれ「孫にも見せます」と持ち帰りました。

 

このことを機に、その後も何度も生け花をされ、その度に嬉しそうな表情を見せていました。また、奥様が一緒に行うこともあり、Dさんは「ありがとね。ありがとね」と直接お礼の言葉を伝えることも出来ました。

 

Dさんはこの頃、生け花を行う時以外の時間は、痛みで顔を歪められることが多くなっていました。また、食事量も少しずつ低下していきました。Dさんの顔は少しずつ痩せていき、か細いと感じていた腕や足も骨の形がわかるようになっていきました。

 

私たちは癌の進行や排尿痛・血尿はもちろんですが、食事が入らずに点滴のみで過ごす日々を心配していました。Dさんがお元気だった頃から大好きで飲んでいたミルクコーヒーで口の中を潤すだけで食事を済ますこともありました。この頃のDさんは調子のいい時でも食事を2割程度食べるのが限界でした。

 

ある日お孫様が来所され「おばあちゃんが好きだった」と胡蝶蘭を持って来ました。お孫様は痩せてしまったDさんに少し戸惑いを感じているようでした。

 

それでもお孫様は、ベッドの横に座って、細くなったDさんの手を支えながら一緒に生け花を行っていました。県外に住んでいたお孫様が次に一緒に生け花ができるとは考えにくかったことから、帰り際に一緒に生け花をされていた写真を渡しました。お孫様は「母から聞いていましたが、本当に別人みたいでした。でも、生きているうちに思い出が作れてよかったです」と言って写真を持ち帰られました。

 

4.終末期に向けたプランの変更

Dさんは徐々に花を生ける力がなくなってきました。花に手を伸ばそうとするのですが、手をあげる力がもう入らなくなっていました。また、ベッドをジャッキアップした座位保持の時間も徐々に減ってきました。ベッドを40度以上起こすと痛みを訴えられることもありました。それでも、花を見ている時間は苦痛の表情を見せることはありませんでした。

 

花を生けることができなくなった後も、私たちがDさんの目の前で花を生けて「今日は○○の花ですよ」などの声掛けをしていました。Dさんは言葉を発することができない時でも微笑んで頷かれました。

 

Dさんの経過はあまり良いものではなく、徐々に言葉を発することもできないようになっていきました。この頃から、食事も1口か2口程度しか摂取することもできず、悪い時にはそれでもむせ込んでしまうような状態でした。

 

それからは訪室しても目を閉じたまま過ごしていることや、目を開けていてもあまり反応がないことが多くなりました。御家族が花を持って来て生けるときにも眠ったままということも多くなってきました。

 

私たちは御家族ともに、今後と看取りプランについて改めて話し合いをしました。Dさんが私たちの訪室の際に目を開けていることも少なくなっていることから、目を開けている時に少しの時間でも好きだったものが目に入る環境を作っていくことになりました。そして、訪室の際にも御本人様が飾られた写真やお花を認識できるように言葉掛けを行うことになりました。

 

私たちは居室に掲示する写真を選びました。御家族が持って来た花を嬉しそうに眺めるDさん、その花を生けられる嬉しそうなDさん、そしてDさんが奥様やお孫様と一緒に花を生ける写真も印刷しました。

 

また、目が開くと写真が目に入るように、Dさんの居室の壁に写真を掲示しました。そして、親族が訪室された時には「Dさん、きれいな花を持ってこられてましたね。きれいに生けられた写真もいっぱいありますよ」と言葉掛けを行うようにしていました。

 

反応がある時や、全くない時、少しだけ目を開けられた時など様々でした。

 

この頃のDさんは目を開けている時間が少なかったことから、御家族に昔よく聞いていた歌謡曲や詩吟などを教えていただき、枕元で流すということもしていました。

 

Dさんに「昔よく聞いておられた歌ですよ。覚えていますか?」と声掛けを行うと、Dさんは同じように少し目を開かれたり、目を閉じたまま小さく頷くなどの反応をしていました。

 

私たちの言葉や歌が本当に聞こえていたのか。本当に見えていたのか。事実は私たちもわかりません。しかし、少しでも、Dさんが好きだった生け花を感じられるように言葉掛けを行っていました。

 

5.Dさんの喜びと痛みと最期

私たちや看護師から御家族への連絡を行い、いつ何があるかわかりません。少しでも面会が可能であれば最後の時間を一緒に過ごしてあげてくださいとお伝えしていました。

 

それから3か月が経過してDさんは亡くなりました。Dさんの最後は苦しむ様子もなく奥様とお孫様に見守られる中、大きなひと呼吸を突かれた後に、そっと息を引き取られました。

 

Dさんは看取りになって8か月、痛みに耐える日々が続いていましたが、花を生けている時は本当に嬉しそうにされていました。また、御家族と一緒に生け花をされていた姿はとても闘病生活とは思えないほど良い表情でした。

 

生け花ができなくなった後に花を見ていただいたり、歌を聞いていただいたことに、表情としての反応はありませんでしたが、残された時間に対して、御家族様がDさんのために一生懸命考える時間を提供できたと思います。

 

6.聞き取りとケアプランの作成

私たちは終の棲家と言われる特別養護老人ホームで働くにあたって、多くの方の終末期を目にします。突然の心不全で亡くなられる方もいれば、Dさんの様に医師から看取り期との診断を受けて、看取りのターミナルケアを行うことがあります。

 

私たちが職員として行うことのできるターミナルケアはもちろん医療的な内容ではありません。苦痛の緩和を行いながら、QOLを保つ。私たちには身体的な苦痛を薬の力で和らげることはできません。しかし、私たちに出来ることは気持ちの緩和ケアです。

 

私たちが福祉を勉強する中でケアとキュアの違いについて考えさせられることがよくあります。決して医療を否定するわけではありません。病気を治す対処療法は確かに必要な場面があります。

 

私の体験談ではありますが、私の祖父は脳梗塞で倒れ肺炎を併発し亡くなりましたが、最後は全身を何本ものチューブで繋がれており高校生の私には祖父は生きているのではなく生かされていると感じたのを覚えています。

 

私が福祉の道に進んだのはこの経験もきっかけの一つでした。あれが本当に祖父の望んだ最期だったのかは誰にもわかりません。しかし、今こうしてご利用者様の看取りに携わる中で、私はその人らしい最期とは何なのかを日々考えさせられています。

 

Dさんのケースは気持ちのケアについて本当に考えさせられたものでした。多くの方が自分の意思をうまく伝えることができない状態になってから看取り期を迎えます。御本人様の意思が聞き取れないとなると、御家族への聞き取りとなります。

 

Dさんのケースでは看取り期と診断された時には認知症も進行しており、御本人様の意思は聞き取れなくなっていました。血縁者である弟様に聞き取りを行おうにも、弟様もかなりの高齢でした。長男様は先に他界されていたことから聞き取りができるのはその奥様、あとはまだ社会人になっていないお孫様でした。

 

私は延命措置の有無を決定だけでも奥様とお孫様は苦悩されていたと聞きました。自分の親でもおそらく悩むと思います。

 

そして、最期をどのように過ごしてほしいかと聞かれても答えようがなかったのかもしれないとも思いました。だからこそ、私たちはケアマネジャーなどの聞き取りや1枚のフェイスシートのほんの一部分に書かれている生活歴から御本人様を読み取る事が必要と感じたケースでした。

 

それは支援者の自己満足なのかもしれません。Dさんがそうして欲しいと話せたわけではないのです。しかし、私たち職員ができる心や気持ちに寄り添うケアの答えはDさんを含めたご利用者様の表情の中にしか答えはないと私は思います。

 

また、そしていかに聞き取りができたとしても施設の中に花畑を作ることもケガのリスクを伴う備品を持ち込んで華道を行うことはできません。私たちは私たちの【やってあげたいこと】と【やらなければならないこと】と【できること】の中で仕事をしています。

 

【余生を少しでも本人らしく過ごさせてあげたい】気持ちを【安全を配慮で来た環境作り】を行った上で【生け花をしていただき、行えなくなった後も花に囲まれ、その思い出に囲まれて】最期を迎えて頂く。

 

御家族や私たちがDさんを気持ちの寄り添い、Dさんを想って聞き取り、Dさんを考えて生み出した笑顔が気持ちの緩和ケアの答えではないかと私は思います。

 

7.家族の思いと葛藤

Dさんが亡くなられ、私たちはDさんを施設から見送りました。Dさんは葬儀場に直接行かれるのではなく、一度、思い出の詰まった旅館に帰ることになりました。

 

Dさんの御家族が荷物を取りに来られ、退所の手続きを行われたのは亡くなられて5日後のことでした。

 

私たちは退所の手続きの際にDさんの終末期のプランについて御家族に聞くことができました。先ほど書いたように、奥様もお孫様も検査を受けられた際の延命措置や治療の前段階から答えを出せずにいたとのことでした。

 

特別養護老人ホームへの入所が決まり、長男様が亡くなられた時からその時をどうすればいいのかをずっと考えていたそうです。

 

奥様は「いっそのこと延命に対しての遺書があってくれた方が気が楽だったと思います。本当に延命しないという決断が正しかったかわからないと悩んでいた時にターミナルケアのプランの話をされ、その時は正直、考える余裕がなかった」と話されました。

 

しかし、実際にターミナルケアのプランが始まって、笑顔で生け花をしているDさんの写真を見て、「病院だと生け花はできなかっただろうな」と思ったと話されました。初回の生け花を私たち職員だけに依頼したのは、苦しそうに生け花をしていたら奥様の中で後悔が大きくなってしまうのがわかっていたからだったようです。

 

「花を見て喜んでいる姿を見て、少しだけ心が救われた気がしました」、「花を生けることができるうちに私も会いに行こう。孫とも花を見る時間を作ってあげたいと思って孫にも帰省するように伝えたんです」と言っていました。

 

私たちはDさんだけを支援していたのではありません。御家族と一緒にプランを考えることで、御家族に対しても気持ちの緩和ケアができていたのだと思います。

 

 

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