得て良い快楽と、悪い快楽。
前回の記事で「快楽を遠ざける者が賢者である」と言ったが、すべての快楽を遠ざけろと言っている訳ではなく、当然ながら「得て良い快楽もある」。
それは、「他者からの優しさに本心から感謝することのできる快楽」である。
これは、いくら大量に得ようが、自分を堕落させることが決して無い。
なぜなら、他者からの優しさに本心で感謝すると、人は自分も他者に優しくしたいと思い行動するようになれるし、そうした利他的な思いや行動は、自分を高め、周りも良くするという好循環を生み出すからである。
つまりこれは、快楽を得ることが自分にとって良い働きをした、ということになる。
一方、避けるべき悪い快楽とは何かというと、それは、最終的に自分を堕落させてしまうような快楽である。
逆に言えば、今堕落した生活を継続している人は、その原因が「悪い快楽」によるものである可能性が非常に高いということだ。
例えば、汚い部屋に現在不満を抱きつつも、その堕落を継続しているという人は、その汚い部屋から何かしら快楽を得ているからそうしているのであって、その快楽を悪だと本心で認識できないから、堕落しているのである。
自分自身が最終的には必ず堕落してしまうだろうと認識している物事なのであれば、それを引き起こす原因である「悪い快楽」を、実直に悪であると本心で認識す・べ・きなのである。
いかにして悪い快楽を、真の悪であると認識できるかどうかが、最大のカギであり、最重要課題なのだ。
避けるべき快楽を避け、得るべき快楽を得る。
泡沫のごとき生を有意義なものにするためには必須の心得ではないだろうか。